国際関係史 米国ヒスパニック研究 ラテンアメリカ研究
牛島 万 ホームページ

Last Update Tuesday, February 17, 2009

このページでは、牛島万のホットな情報をご案内致します。


NEW!!

スペイン論のまとめ

(東海大学「スペイン語文化と社会(スペイン)」筆者講義ノートから)

 スペインはヨーロッパの最西端にあるイベリア半島に位置し、同じ半島内には隣にポルトガルが存在する。スペインの首都はマドリードで、半島の中央部のメセタ(高原)にある。スペイン第2の都市はフランスとの国境、つまりピレネー山脈に近い、地中海に面する大都市、バルセロナである。この都市を含むこの地域ではいわゆる「スペイン語」とは異なる地元の言語、つまりカタルーニャ語が話されている。ちなみに、本学で開講されている「スペイン語」とは実質的にはスペイン全土で通用するが、同言語はスペイン憲法が定める複数ある公用語のひとつであって、唯一のものではない。「スペイン語」は別称カスティーリャ語といわれるが、もともとスペイン中央部から発生した地方語である。現在スペインの公用語として憲法が認めているのは全部で4言語である。

 1939年のスペイン内戦終結後、勝利者であった右派のリーダー、フランコが独裁体制を樹立し40年間この体制が継続したが、彼の死をもって、つまり1975年以降、スペインの民主化がスタートした。1978年憲法(現憲法)では、民主主義の理念が掲げられ、その一例として先に述べたように、公用語使用の多様化が謳われている。

*   *  *  *

 かつて歴代の知識人たちは「スペインの再生」について議論してきた。外交官であったS・マダリアーガは次のように述べる。

 「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えたあとで走り出す。スペイン人は走ってしまったあとで考える」。

 おそらく彼を含め知識人はスペインの理想と現実とのギャップに苦悩していたのかもしれない。しかし、スペインは独特の文化、とりわけ芸術文化をもっている(1)。それが可能なのは、やはりスペイン人が概して理性よりも感性に秀でているといわれている所以かもしれない。かの有名な文豪セルバンテスが著した『ドン・キホーテ』のなかでも理性と感性(感情)の対比がひとつの物語の重要な柱になっている。主人公のドン・キホーテは風車小屋を巨人だと見立てるまさに狂人めいた人物して扱われる一方、従者のサンチョ・パンサは「旦那、あれは風車小屋ですよ」と冷静に対応する。まさに後者に代表されるように、理性こそ、国や個人の着実な発展には不可欠な要素であろうし、それが科学技術の発展にも結びつくのではある。その点ではマダリアーガも述べるように、スペインという国はその逆の性格をもっている国なのかもしれない。主人公にみられる半ば狂人めいた「精神性」こそ、スペインの独自性の形成にかかわる重要な真髄であったのかもしれない。なぜなら、芸術性とは、決して理性だけで表現できるものではなく、優れた感性との関わりのなかから生み出されたものだからだ。そしてそれを生む土壌がスペインでは存在したということか。たとえば、スペイン人芸術家S・ダリは果たして「狂人」なのか、それとも偉大な芸術家なのか、を考えてみよう。理性という尺度からみれば半ば「狂人」扱いされることがあっても、逆にその高い感性や芸術性がゆえに偉大な芸術家として評価されることはあるのだ。

*   *  *  *

 スペインは1986年にEUに加盟して以来、従来の、ヨーロッパのなかの半周辺的な農業国、観光国から脱却し、民主化と経済の自由化による国家発展を築いてきた。具体的には、多くの外国からの直接投資の影響、民営化、欧米型の競争の原理と成果主義導入によって、経済構造の脱本的改革を推進してきたのである。これによってGDPは世界第10位まで上昇してきている。また政治の民主化も推進され、社会労働党(PSOE)と国民党(PP)の二大政党の政権交代が続き、現在は前者が与党である。ちなみに現首相はサパテロである。前政権アスナール首相の2004年3月、スペインはテロリストによる列車爆破事件に遭遇し、以来、スペインはそれまで以上にテロ対策に力を注いでいる。従来、バスクの独立志望のテロリスト集団ETA(バスク祖国と自由)による反政府攻撃で政府は苦戦していたが、当初、列車爆破事件の犯人は同集団の一味であると名指しにしたことで、かえって当時の政府が批判されるという一場面もあった。またテロリストではないが、その予備軍として懸念される麻薬マフィアや青少年のギャング化など、社会不安を助長する問題が存在している。

 これまでの民主化の過程で、中央政府は地方政府の自治を認めてきているが、中央集権化から地方分権化に向かうことは権力分散という点で民主化の一端を飾るものではあるが、反面、これに関するマイナス的な問題が起きる可能性もあって、(2)今後の「自治」容認には検討の余地が十分に残っている。

*   *  *  *

 はたしてスペインの民主化の現状はどうか。たとえ民主化のスタートを切ったとしても、それが長期的に安定したものでないと、結局、民主主義は「根づかず」、真の民主主義国家とはなりえない。さらにその民主主義の中身、つまり質を追究しようとしたときに、意外にも「表面的な」民主化か否かがわかるものである。民主主義の逆の意味の言葉として独裁制や独裁主義があるが、独裁制とは特定の少数の人物による支配を根底に置いている。フランコ亡き現代スペインにおいて、かりにその民主主義の質に問題があるとすれば、その体制は総じて政治学の用語を用いれば権威主義といわなければならない。そして現に反民主主義的な「伝統」は一部に存続しており、それが経済構造や人間関係(ビジネス関係)を規定し続けているのである(3)。

【指導のポイント】

 (1)「スペインは独特の文化、とりわけ芸術文化をもっている(1)」とあるが、「バルセロナと芸術」、「アンダルシアとフラメンコの魅力」、「イスラムの文化遺産」というテーマに関して、アーティストあるいは作品、建造物等を紹介しつつ、その魅力とそれが生まれた文化的背景について理解させる。

(2)「中央集権化から地方分権化に向かうことは権力分散という点で民主化の一端を飾るものではあるが、反面、これに関するマイナス的な問題が起きる可能性もあって、(2)」とあるが、「地方分権化とテロリズム」というテーマで、地方分権化のマイナス面について持論を展開できるようにさせる。

(3)「現に反民主主義的な「伝統」は一部に存続しており、それが経済構造や人間関係(ビジネス関係)を規定しているのである(3)。」とあるが、その「伝統」とは具体的に何か。またこの「伝統」のマイナス面(あるいはプラス面もあれば)について、拙稿(『現代スペイン読本』2008)を参照しつつ、理解を深めさせる。


参考文献

牛島万「スペインとラテンアメリカ」(『現代スペイン読本』川成・坂東編、丸善、2008年に所収)

                        【2009年2月16日脱稿/2月17日アップ】



スペイン社会の「伝統」と変容――映画批評を通じて

(首都大学東京オープンユニバーシティ「スペイン語社会文化事情講座」2009/1/31講義ノートより)

カトリックの規律と社会

 伝統的なスペイン文化を一言でいえば、キリスト教のカトリック(旧教)の影響を受けた文化といえよう。というのも、直接宗教文化に関係がないようにみえても、カトリック的規律、階級関係が一般の社会に浸透しており、その意味でカトリック主義とは無縁ではないからである(『現代スペイン読本』2008の拙稿を参照のこと)。

 1939年にスペイン内戦が終結し、フランコ将軍が勝利し、その後約40年間はかれの独裁制が続く。フランコ主義はカトリック教会を擁護する右派体制であった。独裁制というに相応しい、いわゆる権威主義体制を確立したのである。したがって、政治的自由や言論の自由などきわめて制限されていた。この体制は第二次大戦でいわゆるファシズム体制とされていたドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニとの関係が密であった。これらふたつの体制はやがて崩壊するが、フランコ体制は彼がなくなる1975年まで続いたのであった。『サルバドールの朝』(06年)という映画ではフランコ末期の脆弱体制のなかで一人の若者がテロ行為に身を投じ、最後は不当な裁判で死刑に処されるという悲話が描かれている。

 さて、フランコ派に殺されたのはこの若者だけではない。かの有名なガルシア・ロルカもスペイン内戦中に30代の若さで殺されている。彼の作品のなかに『ベルナルダ・アルバの家』という作品があるが、これはかつて映画化された(87年)。父親の喪に服すために5人の若き娘たちは母の言いつけにしたがって、外出も制限され、あこがれの男性とも会えないでいる。そして黒っぽい地味な服を着て暗い家の中で一日中編み物をしている。炊事、洗たくは女中がやる。要することに、ほかにやることがなく退屈なのである。ロルカは、女性の性や自由を抑圧するカトリックの慣習や規律主義を静かに批判する。最後には家族に気が狂い出す者も登場する。自分の愛する男性が夜こっそりと会いに来ていたところを母親に見つかり銃で追い払われた。そして、母親はあとを追ってその彼を銃で殺したから二度とお前の前には現れないと娘に嘘をつく。これを本当だと思い込んだ娘は姉の結婚衣装部屋で首をくくって自殺する。まるでロミオとジュリエットを想起させるストーリーであるが、昔の典型的なスペイン社会の厳しい伝統的規律のなかで、いかに人々が、とりわけ女性が抑圧されていたのかを考えさせる適切な題材となっている。

 

スペイン内戦

 他方、スペイン内戦(1936〜39年)がスペインの歴史や政治イデオロギーのうえで重要な歴史的事件であると同時に、その後のスペイン社会に与えた後遺症が大きかったので、映画のなかでも内戦はかつてのスペイン映画でよく扱われるテーマであった。内戦は3年で終わったが、フランコを中心とする右派が勝利し、共和主義者、共産主義者、無政府主義者などをひとまとめに左翼とされたが、これが敗北した。そして、内戦で負けたものは職を奪われ、なかには亡命を余儀なくされたものも多かった。亡命先として、メキシコに1万くらいの亡命者が移住したようである(フランコ体制の終結までスペインとメキシコは国交がなかった)。フランコ体制下で不当な逮捕の末、死刑判決を受けた者が一説には5万もいるという。内戦後のフランコ体制下のスペイン社会を描いた作品として、わが国には80年代後半にはいってきたものとして、ビクトル・エリセ監督の『みつばちのささやき』(73年)や10年後の『エル・スール』(83年)があるが、これらは内戦後の大人たちの苦悩を子供の視点から描いているという点で共通している。

 またアグスティン・ヤネス監督の『死んだら私のことなんか話さない』(95年)のフリアは内戦で左翼だったため、逮捕、拷問にかけられ、その後職も奪われた。『エル・スール』の母親も元教師であったが、戦後は家庭にはいっている。このように社会から疎外され職場を奪われ、また夫は処刑されたと思われるフリアは知的で堅実で我慢強い女性である。自宅で子供たちを指導して小遣いをかせいでいる。一方、息子はもともと闘牛士で政治には無関心だが、いわゆるスペインの伝統性を代表する競技である闘牛に命をかけてきたという点で、母とは相反する立場であった。しかし、その息子も闘牛場での事故で植物人間になっている。他方、グロリアはどこにもいるようなごく普通の、あまり教養は高くないが、気立てのいい、明るいテキパキとした女性であった。しかし、そんな夫をまえに、元来の明るさを失い、ひたすら夫にかわって家のローンの返済で苦しんでいる。そして、フリアと違って、冷静に堅実に物事を考えないために、短期間で楽に稼ごうとあえて危険を冒すのだ。フリアのような地道に努力するタイプではない。娼婦や強盗など次から次へと企て失敗し、あげくの果てにはアルコール依存症になっている。

 しかし、そのグロリアがやがて苦しみから「解放」されるときが訪れる。それは高校卒の資格試験の勉強をして、無事にそれにパスしたためだ。学歴や資格をとることで社会的向上のための最初の第一歩を踏んだからだ。これもすべてフリアの指示に従ったためであった。フリアは教育(学歴)と自信が最後は自分を救ってくれると信じていたのである。しかし、そんなフリアにもある決断があった。伝統に固執する闘牛士であり現在は植物人間である息子(グロリアの夫)と、革命分子として反政府運動に没頭していた若い頃ほど今の世のなかに「夢」をもっていない母フリアは、新しい時代を生きていかなければならないグロリアの幸せを願って、家族という伝統的束縛から彼女を「解放」するために、自ら死を選ぶのであった。

 

性と暴力とドラッグ

 最近のスペイン語圏の映画の特徴は表題のような要素が入っている場合が多い。先に挙げた『死んだら私のことなんか話さない』にもこの要素が含まれている。ペドロ・アルモドバルの『グロリアの憂鬱』(84年)の主婦グロリアも冷めたきった夫婦関係に嫌気がさして、見知らぬ男性との一時の快楽を楽しみ、また精神安定剤の常用者になっている。ただアルモドバルはこれらの社会的問題がごく一般の家庭に浸透してきて、家族関係までおかしくするような状況を生んでいることを、ユーモラスを交えて描いているのが特徴である。とにかく、ここに登場する人物はみんな普通ではないのだ。また『死んでしまったら…』のグロリア同様、このグロリアもごく普通の女性であるがその苦境を何とか自分の力で乗り越えようとするラテン系女性らしいたくましさをもっている。マンションの隣に住む売春婦と仲はいいが決して自分はその仕事を選ばないという強い信念というものがある。また夫との口論の末、夫を殺しても警察の前で無関係を装うほどの大胆さももっている。

 日曜日の昼間の自宅マンションでのマリファナ・パーティーみたいな話がメキシコ映画の『ダック・シーズン』(04年)である。4人の全く付き合いのない人間(うちプラマとモコは友人同士)があるマンションの一室の日曜日の午後、ふとしたことから出会うのだが、4人のあいだにはあまり会話らしい会話がない。皮肉にも4人を結び付けてくれたのがマリファナ入りのケーキであった。まさに現代人のコミュニケーションスタイルを象徴しているようだ。そして各人がそれぞれいろいろな悩みや思いをもって生きていることが少しずつわかってくるのだが、最終的には相互の対話を通じて各人が多少の希望をもって何とか「満足しながら」それぞれ家路に向かうのであった。

新しい時代のマチスモ

 他方、強くたくましいラテン系女性にたいして、男性はどうか。伝統的には「たくましさ」「勇敢さ」「経済的余裕」「人脈」「権力」などを有する、まさに一言でいえば肉体的、物質的、精神的に「強い」男が真の男性として認められ、この「男らしさ」(マチスモ)が男性性のすべてであった。しかし、現代社会の自由の風潮のなかで、わが国同様、男性が中性化し男性性も多様化してきている。反面、極度に男性性を強調しすぎるのも現代の特徴である。『エル・パトレイロ』(91年)でメキシコ北部のハイウェイ・パトロール隊のペドロは男性性を前面に出している警察という組織に属しているものの、個人的にはきわめて心の優しい、妻に従順な男性である。結婚後、妻の態度が横暴になり、そのいやしをもとめて夜の酒場に行くが、そこでマリベルと出会う。妻は警察官なら賄賂でも巻き上げて来いと無理な要求をペドロに出す。忠実にお金をもって帰ってきたときは妻の機嫌がよい。マリベルもまたペドロに対して、同居して養ってくれないか、そうでなければ養育費を工面してくれと厚かましい要望を出してくる。ペドロはやさし過ぎて、悪くいえば、優柔不断であるために、両方の女性の機嫌を取り続けなければならず、そのことで自己嫌悪に陥っているのである。まさにマチスモに反する現代的な男性像である。その是非は別として、ラテン系社会のステレオタイプの男性像からは完全に逸脱している。これが映画の主人公になっていることが新しい動向として注目される。

 さらに同性間の結婚が05年に認められたスペインでは、同性愛や同性婚は自由の象徴のひとつとなっている。アカデミー最優秀女優賞と脚本賞を受賞したアルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)では、女性を愛する同性愛者の女優ウマ、性転換して男性から女性になったアグラードとロラが登場する。ロラはバイセクシャルで、それをおそらく知らずにマヌエラはロラ(元の名前はエステバン)と結婚する。しかし、やがて離婚。ロラは知らなかったが、彼のあいだには一人の息子が生まれた。マヌエラはその子に夫と同じエステバンという名前をつける。しかし、息子エステバンは雨の日車にひかれて死亡。悲しみのなかマヌエラは元夫を探しにバルセロナに向かう。そこでウマやアグラードに出会う。エルサルバドルへの支援事業をしようとしているシスターのロサにも出会うが、実は元夫のロラと性的関係をもっていた。ロサの命と引き換えに男の子が生まれるが、その子にもエステバンという名前をつける。エイズの末期にあったロラにロサの葬式で再会する。マヌエラの母性が画面を通じて伝わってくる。ロラがまるで子供のようにみえる。男性が母性を求めていること場合はこんなものかもしれない。母的な愛を感じることで「満足して」死を受けいれようとするロラの姿がうかがえる。その一方でマヌエラには過去に与えられた苦しみのすべてを水に流し、相手を許して受け入れるというマリア的な優しさが描写されているように思える。

生きるとは

 生きるということは幸せで「満足して」生活することである。生きるために、家族、友人、その他の人間関係、そして経済的基盤、健康等が幸せで満足な状態でなければならない。いずれかが著しく怠れば、それを全うすることはできないであろう。しかし、世の中にはそれができない人は少なくないのである。だが、そのような場合でも前向きに生きようとする意欲があれば、まだ救いであろう。またその救いは周りの人間から教えられる場合もあろう。しかし、それがまったくなくなった場合、人間は命を自らの手で絶つことがあるかもしれない。そこまでいかなくても、金銭的な苦労は人間の理性を狂わせることになろう。明日の夢や希望を失ったものはもはや失うもの、守るものはないと自己嫌悪に陥り、感情だけで短絡的で無謀な行動をとるようになる。昨今、大幅なリストラ政策で失業者が急増してきている。これは世界的な現象であり、スペイン語圏でも同様である。

 『今夜、列車は走る』(04年)は記憶が定かではないが、昨年(08年)の今頃日本で上映された映画である。渋谷のある映画館のレイトショーでやっていた。私はこれを映画館で観たとき、映画の内容が現在の日本社会の状況とあまりにもかけ離れすぎているので、映画のメッセージ性が日本の一般観客に理解されにくいのではないかと懸念していたが、それから数か月後、アメリカで金融パニックが起き、これが不況を起こし、世界に波及している。日本も深刻なリストラの問題が日夜ニュースで大々的に取り上げられている。

 1990年代、アルゼンチンの当時のメネム政権のときに経済の自由化政策を実施し、多くの国営企業の民営化が強行された。この映画はこれによって行き場を失った6万人の鉄道員の実話をもとに作られた物語である。再就職活動をするが、なかなか仕事がみつからない。仕事を失うことで、元の仕事仲間との関係の疎遠、家族関係の不和、そしてこれが近年のラテンアメリカ映画でよく取り上げられるテーマであるが「男性性の喪失」などが問題になってくるのである。なかには犯罪に手を染めるものも出てくる。そんな家族の大黒柱的存在でなければならない夫や父親がその威厳もなくその気力も失っているのである。反マチスモ的である。精神的に異常な部分も見られるのである。それを心配しているのは妻であり子供なのである。実は大人よりも子供の方が冷静にこれを見ており、自分たちができることは何かないかと大人を気遣っているのである。今一度、気力を失っている男性にもう一度「強い」男性になってもらいたいという願いが映画の主題に込められている。

 映画や小説は現実を土台に脚本を書いているにしてもフィクッションの要素が含まれている。この映画の場合は、最後に労働者に勇気が与える場面として、廃止された鉄道が今一度みんなの前を走るというシーンがある。なぜか妙に感動がこみ上げてくる場面である。でも冷静に考えると、これはフィクションである。でもこれでいいのだ。これで。「夢」はフィクションであるが、これによって勇気が与えられ、生きようとする活力がうまれ、真の「男性性」(夫として、父親として、そして一人の立派な男性としてまわりから認められる男性性)が復活する起爆剤になるなら、それは映画や小説の社会的貢献として十二分に評価できよう。少なくとも、映画が、個々人に冷静さを取りもどし苦難に対して黙々と前向きに歩んでいく気力と勇気を与えるきっかけとなるのであれば、それは「夢」であってもいいのだ。あとそれを現実にかえられるかどうかは、その人間の努力の成果を社会や周りの人間に認めさせることができるかどうかに関わってくるだろう。そのためにはつねに自分が夢や自信を持たなければならない。世の中、そんな捨てたものではないと思う。(了)

                               

引用した映画作品リスト

『サルバドールの朝』(06年)スペイン/ マヌエル・ウエルガ監督

『ベルナルダ・アルバの家』(87年)スペイン/ マリオ・カムス監督

『みつばちのささやき』(73年)スペイン/ ビクトル・エリセ監督

『エル・スール』(83年)スペイン/ ビクトル・エリッセ監督

『死んだら私のことなんか話さない』(95年)スペイン/ アグスティン・ヤネス監督

『グロリアの憂鬱』(84年) スペイン/ ペドロ・アルモドバル監督

『ダック・シーズン』(04年)メキシコ/ フェルナンド・エインビッケ監督

『エル・パトレイロ』(91年)メキシコ/ アレックス・コックス監督

『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)スペイン/ ペドロ・アルモドバル監督

『今夜、列車は走る』(04年)アルゼンチン/ ニコラス・トゥオッツォ監督

                         

                              【2009年2月15日脱稿/2月17日アップ】



2009年度版「スペイン語学習のすすめ」

               (T大学学生への配布資料より)

 スペイン、メキシコ以南のラテンアメリカ(中南米)諸国約20カ国の公用語で、米国においてもスペイン語の重要性は増してきています。世界で2番目に使用人口が多く、その数は4億人を超え、英語を上回っているスペイン語。しかも日本語と同じ5母音で、日本人にとって発音しやすいと言われています。楽しい雰囲気のなかで自然とスペイン語が話せるように、日本人教師の解説とネイティブスピーカーとの会話練習を通じて、懇切丁寧に指導します。

 スペイン語を学ぶと次のような特典があります。

@ 4億人とコミュニケーションが出来ます。

A 英語が話せる人は多いですが、日本人でスペイン語を話せる人はまだ希少価値です。みんなからうらやましがられること間違いなし!就職にも有利!

B スペイン語圏には美男美女が多く、明るくて情熱的である。彼らと巻き舌で流暢に会話をしていると心地よい!

C 米国でもスペイン語で生活できる!

D 海洋学は自然科学を学ぶ学問です。地球上の自然の多くは発展途上国に集中しています。発展途上国といえば、スペイン語圏が最大です。

E 日本にたくさんの中南米やスペインの人が住んでいます。静岡県は愛知県と並んでその人口が集中している地域なので、自分の身近でスペイン語が役に立つことがきっとある!

F なかには日本語が上手に話せない人も多いので、あなたがスペイン語を話せると彼らは助かります!

G サッカー中継で解説者のスペイン語が分かれば、二重にうれしい!

H マヤやインカなどの古代遺跡の宝庫。現地調査にはスペイン語は必須!

I スペイン語関連科目の所定単位を取得した場合、本学の副専攻課程修了者として認定されます。

                               【2009年2月1日脱稿/2月17日アップ】




スペイン人の情熱は海洋にあり(改訂版)

――世界20ヶ国の公用語スペイン語のすすめ――

 グローバリズムが世界中に浸透しつつある現在、外国人とのコミュニケーション・ツールである外国語能力がますます重要になってきています。なかでも実践的な英語教育に関心が高まってきていますが、事実、英語は主要な国際語であることには違いはありません。しかし、非英語圏の街中では英語だけではカバーしきれない場合があります。そこで本学では、中国語、コリア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語など、英語以外の第二外国語を学ぶことができます。受講者数を見る限りでは、ヨーロッパ言語のなかでは最も人気が集まっているのがスペイン語のようです。

 ではどうしてスペイン語を受講する学生が多いのでしょうか。スペイン語は中国語に次いで世界で二番目に多く話されている言語(約4億人)で、すでに英語を上回っています。しかもスペイン語はスペインだけのものではなく、メキシコ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、コロンビア、ペルー、アルゼンチン、チリなど中南米(ラテンアメリカ)を中心に約20ヶ国の公用語になっています。さらに、90年代以降、経済のグローバル化が推進されるなかで、スペイン語を母語にしているヒトの移動や貿易が活発になってきています。もともとスペインや中南米に集中していたスペイン語話者が今日ではアメリカ合衆国や日本など世界中に居住しています。

 アメリカ合衆国は中南米から最も近い経済大国ですから、必然的に人の流れが米国に向かいます。今日米国に居住しているスペインおよび中南米系の人たちを「ヒスパニック」や「ラティーノ」と言いますが、その数は4000万を越え、白人以外でこれまで最大だったアフリカ系(黒人)人口をすでに上回っています。年々その数は増加しています。彼らの多くが、米国のなかでスペイン語を使用しており、アメリカの高校や大学ではスペイン語教育に力を入れています。フロリダ州などでは法律で英語とスペイン語の二言語教育が認められております。またCNN en espan~olやUnivisio'nのように、アメリカにはスペイン語ネットワークが4つもあります。

 日本でもスペイン語話者が全国的に増えてきております。とりわけペルーからの日系移住者です。彼らは自分たちの祖先の国に来て働いているわけです。ペルー以上に中南米の国で在日居住者が多いのがブラジル人ですが、彼らの言語はポルトガル語です。しかし、スペイン語とポルトガル語はもとを辿れば同じラテン語から派生しており、その意味で兄弟語の関係にあります。あなたがスペイン語を話せば、ブラジル人はそれを理解してくれるはずです。無論、その逆も可能で、スペイン語をかなりマスターすれば、あなたはポルトガル語も理解できるわけです。これらの言語がわたしたちと直接関わってくるという意味では、大学のある静岡県をはじめ、愛知県、岐阜県など東海地方には多くのブラジル人、ペルー人が居住しています。もし電車や街中で英語ではない言語を耳にしたら、ポルトガル語かスペイン語の可能性が大きいでしょう。外国人の犯罪や社会問題がよくマスメディアで報じられますが、マスメディアによるネガティブなイメージも加わり、外国人との「共生」は実際のところ難しい課題です。しかし、私たちは言語を通じて相互理解と共生に努めなければならないでしょう。日本語をよく理解できずに日本で暮らしている人も多く、彼らを助け、相互の交流ができる、スペイン語を解する若い世代の活躍が今後ますます期待されています。

 また近年の政府間の自由貿易協定(FTA)/経済連携協定(EPA)の成立という点では、日本は中南米ではすでにメキシコとチリとの間に経済連携協定(EPA)を結んでおります。

 では、本題に移りましょう。どうしてスペイン人の情熱は海洋にあるのか。「情熱」といえば、フラメンコをイメージされる人もいるでしょう。またリーガ・エスパニョーラ(スペイン・リーグ)のレアルとバルサの試合での観客のサッカー熱をイメージされる人もいるでしょう。あるいはゴヤ、ベラスケス、ピカソ、ミロ、ダリなどの画家、サグラダ・ファミリア教会の設計者ガウディーに見られる芸術家の情熱(パシオン)を感じる人もいるでしょう。ここではスペイン人と海との関係に焦点をしぼって、彼らがいかに海洋に情熱を傾けてきたかお話しましょう。またこれを日本との関係で説明したいと思います。

 飛行機がなかった時代に汽車はありましたが、さらにそれ以前、陸路では馬車、海路では船しかなかったわけです。日本という国は周りを海に囲まれている島国ですから、当然船がなければ周辺国との交易もできなかったわけです。スペインの場合も同様で、国内通商ならともかく、外国との通商は、イベリア半島の山がちで起伏の激しい陸路よりもむしろ船をつかって、早くから地中海貿易に乗り出しました。貿易をめぐって外国と競合関係にあったのですが、一方で、北アフリカのイスラム教徒との通商や文化的交流もさかんで、当時のイスラム文化はヨーロッパ文化よりはるかに優れていたため、スペインはポルトガルと並んで、羅針盤をはじめ、イスラムの進んだ造船技術をいち早く習得しました。こうしてスペイン・ポルトガルが率先して15世紀には大航海時代に突入していったのでした。

 ポルトガル人はアフリカを南下し、現在の南アフリカ共和国のアフリカ最南端である喜望峰(ケープタウン)を回って、インド洋をインドに向けて北上するという海路を発見しました。このときの水先案内役はイスラム商人でした。つまりイスラムの人たちの方が海路を熟知していたわけです。やがてポルトガル人はインドのゴア、中国のマカオを自分たちの港にしていきます。

 他方、スペイン人はあえて敵対するポルトガル人と別の海路を探していました。折しもプトレマイオスの地球球体説、トスカネリの西方航路説が提唱され、ヨーロッパから西に向かってアジアに到達することができるという考えが広まってきます。しかしまだそれを実現した人がいなかったために、それが真実で成功するかどうかもわからないし、また実行するには多額の資金が必要で、まさに大きな賭けだったわけです。

 イタリアのジェノバ出身のコロンブスは、この賭けを試みようとして、まずはポルトガル国王に打診しますが断られます。次にスペイン(厳密にはカスティーリャ王国)女王イサベラに7年の歳月をかけて説得し、コロンブスはスペインの援助のもと、西回り航路でアジアに向けてスペインを出航したのでした。

 今日では当たり前のことですが、当時はヨーロッパとアジアの間にはアメリカ大陸が存在していることは誰も知りませんでした。コロンブスがこれを発見してからも、新大陸とは思わず、最後までそこをインドだと思って死んでいきました。だからそこに住んでいる先住民たちはインディオ(インディアン)と呼ばれ、その広大な陸地は当初ラス・インディアスと名づけられたのです。

 やがてそこはインドでもなくアジアでもなく、一つの別の大陸であることがわかってきます。1513年、スペイン人バルボアはパナマ地峡で大西洋とは別の海、つまり太平洋を発見したのでした。しかしこのときはまだ「南の海」という名称でした。なぜなら、その広大さを認識できていなかったからです。これに「太平洋」という名をつけたのは、実際にこの大洋を横断したマゼランだったといわれています。

 マゼラン艦隊は1520年から翌年にかけて、南米最南端から大海原を帆走し、フィリピンに達します。マゼランはフィリピンのマクタン島で戦死しますが、艦隊二隻のうち一隻は南インド洋を突っ走り、喜望峰を迂回して無事スペインに帰還します。もう一隻は香料諸島(モルッカ諸島)から東航路を求めて北緯43度(札幌と同じ緯度)まで北上しましたが、乗組員54名が餓死し、残りの乗組員も壊血病にかかり、加えて台風に遭遇し、航海を断念せざるをえませんでした。

 次なる試練は、1542年に発見されてスペイン領となったフィリピン(スペイン国王フェリッペ二世の名前から付けられた)と、当時同じくスペインの植民地であったメキシコ(ノビイスパニア)との航路の確立でした。そのためには広大な太平洋を航海できる船舶技術がスペイン帝国に求められました。通商だけでなく、アジアの拠点であるフィリピンと新大陸の拠点であるメキシコを植民地として維持し続けることは、スペイン帝国の太平洋上の安全保障にとっても大変重要なことだったのです。そこで当然航路の確保がその重要な案件としてあがってきます。メキシコからフィリピン行きの航路はマゼランの時代にすでに知られており、地球の自転にともなって、赤道の北方には西へ流れる北赤道海流と東から西に吹く季節風を利用することをスペイン人は早くから熟知していました。

 しかし、フィリピンからメキシコに向かう帰路がなかなか見つかりませんでした。そこでスペイン人の海の探検はさらに続けられます。その過程で、早くもスペイン人は16世紀には沖大東島や小笠原諸島を発見しています。そしてついに1565年、東航路を発見するのです。

 6月1日、マニラからサンベルナルディーノ海峡を通過し、太平洋に出て、マリアナ諸島あたりから西北西の風を求めて緯度を高め、北緯36度までいくと日本の犬吠崎(銚子)の岬が見えたという記録が残っています。さらに北上し、40度付近で北西風に遭遇し、これを利用して43度まで北上しつつ最後は東に向かって帆走し続け、ついに東航路を発見したのでした。こうして9月22日にカリフォルニアに到達したのですが、航海士をはじめ多くの死者が出て、これらの犠牲のもとでスペイン人は海路を発見することができたのです。当時のスペインはまさに「日の没することない国」といわれていましたが、スペインがヨーロッパとアメリカ大陸とフィリピンを支配し続けるためにはまずは海の道を確保する必要があったわけです。

 ところが、日本は太平洋に面していながら、スペイン人ほど海洋を制覇できていませんでした。17世紀に入っても日本は太平洋を横断する技術を持ち合わせていなかったのです。当時、徳川家康が日本近海で座礁するスペイン船を救助しては、彼らをメキシコに送ることを名目に、日本で船を修理させたり、新しく船を造らせたりして、それができあがると日本人を便乗させなんとか海路の情報を得ようとしました。このような日本人の策略に気づいていたスペイン人は日本人に極力情報を与えようとはしませんでした。

 しかし、この時代から日本人はスペイン人と積極的に交流を始めます。はじめてスペインに派遣されたのは16世紀後半、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信のキリシタン大名の命を受けた伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人の少年でした(天正遣欧使節)。その後、17世紀に入ると、田中勝介は日本人としてはじめて太平洋を渡ってメキシコに到達しました。さらに、仙台藩、伊達政宗の家臣、支倉常長はメキシコからスペイン・ローマに渡り、時のスペイン国王、フェリペ3世やローマ教皇に謁見しました(慶長遣欧使節)。現在でも、スペインのセビリャ近くのコリア・デル・リオという町にはJapo'n(日本)という姓をもった人が数百人ほどおり、これらは支倉の使節団で、日本に帰らずスペインに留まったものの末裔であるといわれています。このように日本はスペインとの交流を通じて国際舞台に登場しつつあったのですが、やがて徳川幕府によってキリシタン禁止令が発布され鎖国状態になってからはスペインと日本の交流は途絶え、同時に日本人の船舶技術を学ぶ機会は失われます。こうして航海術、造船技術が未発達のまま、やがて1853年のペリーの黒船来航を迎えます。このとき、わが国ははじめて「蒸気船」の威力を知り、外国の科学技術の高さに驚嘆したのでした。同時に、欧米列強への服従という試練を突きつけられたのでした。だがこの屈辱は一方で、これまで避けてきた「海の制覇」という大志に向けて日本が再燃し始める重要な契機となったわけです。

 その後の歴史を紙数の制約のため簡単に述べておきます。ペリーの二度目の来航で和親条約を、さらに日米修好通商条約(1858)を結ぶことになった日本は300年にわたる鎖国政策を終結させます。これは領事裁判権や協定関税率などの規定が含まれたいわゆる不平等条約でしたが、1858年、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を締結します。しかし、徳川幕府が倒れ明治政府になってからは、日本は積極的に国際社会での自らのプレゼンスを確立していこうとします。文化や科学技術の導入による西洋化の推進と合わせて、富国強兵に力を入れて行きます。その結果が日清戦争(1894-95)、日露戦争(1904-05)での日本の勝利でした。

 日本は、小笠原諸島(1875)、台湾(1895)、南樺太(1905)の領有のほか、ハワイや中南米への移民(榎本武揚のメキシコ殖民団など。本年はブラジルへの入植100周年である)など、そのプレゼンスを太平洋上ならびに環太平洋地域に確立していきます。他方、日本の南海域では、これまでスペインがフィリピンをはじめ、グアム、マリアナ、カロリンなどの諸島を領有していたが、米西戦争(1898)で、スペイン領フィリピンとグアムは米国領となりました。同年、ハワイは米国領になります。残りのスペイン領の諸島はドイツに売却されました。このように、かつてのスペイン帝国の勢力はもはや完全に失われていたのです。こうして、16世紀以来、日本の鎖国政策とスペインの日本不可侵の外交政策によって、日本とスペインのあいだのバランス・オブ・パワーは保たれ、環太平洋地域の安定、平和が長い間確立していましたが、ここにきて日本の海外進出とこれを抑制する米国という構図がそれまでの安定を崩していきます。やがて、日本のハワイ真珠湾攻撃を発端に、日米はまさにこの太平洋上で決戦することになるのです。  

                            【2008年3月23日脱稿/3月31日アップ】

【追記】

 以上は、筆者が勤めるT大学で毎年新入生に配布している「スペイン語ガイド」である。授業内容の詳細に関する記載もされているが、ここでは割愛した。昨今、少子化の影響で入学者そのものが減少傾向にある大学が多いなか、第2語学は自由選択科目である場合がほとんどであるため、その受講生数も当然低迷している。スペイン語はそれでも受講者がその上位を占めているが、スペイン語やその使用言語地域に関する知識や関心がそれほど高くはない非専門課程の新入生に対して、オリエンテーション時にこのようなプレゼンテーションを行うことも個人的には教員の重要な責務であり必要なことであると考えている。教育内容や教授法以前の問題である。無論、教授内容や教授法の改善や展開にも力を入れなければならないのは言うまでもない。われわれ大学教員には多岐にわたる真摯な取り組みと責任が求められると思う。



弱者としての品性

 一部には「品格」と「品性」をほぼ同義語と捉える場合もあるようだが、ここではあえて「品格」ではなく、「品性」であることを強調しておきたい。最近『〜の品格』という数冊の新書版が爆発的に売れているが、品格とは本来、社会的、経済的にある程度高貴ないしは富裕で、それ相当の地位や名誉のある人間に対して求められる、究極の品位のことであり、人によっては理想的で実現不可能な場合も少なくない。したがって、一般人、とりわけ弱者や貧者には申し訳ないが概して無縁のものかもしれない(勿論、数少ないが、品格を重んじる[強者ではないという意味で]社会的弱者はおられる)。なぜなら、品格は経済的余裕からおそらく生まれてくる一定の精神的余裕というものがその前提にあると考えるからだ。

 しかし、品性となれば、話は別である。品格を問う以前に、性差ならびに文化や階級の差異にかかわらず、すべての人間に対して「品性」というものが問われなければならないと思う。個々の人間に多少の品性の欠片すらもあれば、人間社会はもっと平和で生き易い社会になるだろうと思うし、品性は程度の差こそあれ、どんな人間にもあってしかるべきであると考えている。品性とは当然のことながら人のモラル(道徳心)を指しており、これは人間としての最低限のマナーであり、社会的ルールでもある。

 さて、周知のとおり、近年、米国の非合法入国者に対する警戒や取締りが徹底している。米墨国境に次々に建設される「鉄のカーテン」や監視カメラはその象徴となっている。しかし、取り締まられる側はこれより一歩も二歩も上手で、厳重な警戒にもあまり堪えていないようだ。

 『ロセンジェルス・タイムズ』紙によると、国外退去処分後、再び不法入国し罪を犯して検挙された件数は07年度539件で前年度の2.6倍増であるそうだ。またこれは国外退去処分件数全体の35%であり、前年度の17%の2.1倍である。ただし、これらは主として、麻薬密輸、組織犯罪、殺人・強盗などの凶悪犯罪に限るものであり、懲役受刑者や軽犯罪者はこれに含まれていない。したがって、実際はもっと大きい数値になるのだろう。

 他方、次のような記事が報じられていた(AP通信)。今月12日、サンディエゴ沖19キロ、メキシコとの国境から北に36キロの海上に浮かぶ不審な小型船(全長約8メートル)が米巡視艇によって発見された。なかには14人のメキシコ人と1人のエルサルバドル人が乗っていた(男性11人、女性4人)。瀕死の重症にいたっているものはなかったが、脱水状態と空腹で力尽き救助を求めるのもやっとだったという。加えて、発見時、船の中には海水が入っていたが、沈没した場合に泳げる者はいなかったらしい。

 テロリズムや不法入国阻止のための対策として、近年、陸路と空路の警備はかなり強化されてきた。しかし、その一方で、海路だけが盲点として残っていた。海路による不法入国は今に始まったわけではなく、これまでも警備はされているが、キューバやドミニカ共和国などのカリブ海諸国とは違って、米国と陸続きのメキシコや中米諸国からの越境手段としては、海路は最も疎遠のものであった。しかし、今日ではそれが最後の要として利用されている。

 サンディエゴとティフアナの米墨国境線としてのフェンスが陸地から海にまで伸びているのは写真等を通じてよく知られていることである。それはある意味衝撃的な風景なのだが、冷静に考えると、フェンスは近海の人が泳げる範囲内に建設されたものであり、むしろ実際の効果よりもイメージによる越境抑止効果の方を期待しているものと思われる。

 この度の不法入国者の話によると、こうだ。国境の近いロサリト(人口約13万人)の海岸からまず第1の船でコロナダ群島(無人のメキシコ領)に行き、ここで第2の船に乗り換えたわけだが、不幸なことに20分後エンジンが突然止まったという。海のルートは陸や空に比べると利用機会が少ないが、使われるならば、通常、夏の時期、とりわけ日中サンディエゴ海流に便乗し、航海中のヨットや帆船に隠れるようにして気づかれないようにして越境できるというわけだ。したがって、今回のように、冬の時期の、しかも夜間に試みられるのは極めて珍しいらしい。昨年(2007年)の半ば以降、越境行為に使ったと思われる小船がこれまでに20数隻も発見されている。このなかには蛻の殻になっていた船もある。

 この度の事件で舵を取っていたのは10代後半から30代前半までのメキシコ人男性3人であった。彼らも貧しくて組織にカネで雇われていたのかもしれない。さて密入国費用は1人4000〜4500ドルで、これは陸に比べるとその2倍から3倍の法外な値段であるという。集団密航犯罪は10年以下の懲役である。

 このように、品性のない社会的弱者は強者との戦いに敗れた腹癒せからなのか、自己の自信回復のためなのか、あるいは妬みなのかわからないが、同じ弱者のなかから自分が太刀打ちできそうなさらなる弱者を無理に創出し、これを陥れることで、なんとか自分の優位性を保とうとする嫌いがある。もはや良心の呵責というものもないのだろう。

 第三者的に客観的に見れば、たとえ社会的に経済的に弱い立場に立っている者であれ、一部に同情され賞賛されうるとするならば、その人生はまだ救われるというものであろう。そうなれるかどうかは、その当人に「人間」としての道を外さないという基本的な「哲学」が備わっているのかどうかで決まると思う。この有無を見極める最小の、しかし最も重要な点は、品性の有無に他ならないのではないかと考える。以上のことから、品性は品格よりまず問われなければならない「人間」としての要件なのである。

                        【2008年3月19日脱稿/3月19日アップ】



右足がメキシコ、左足がアメリカ?

 連日のように米大統領選の州予備選に人々の関心が集っているが、この選挙でも大票田であるヒスパニック系は重要な鍵を握っている。そこで候補者はヒスパニック系の得票のためキャンペーンを大々的にするなどして奮闘努力している。ところで、ヒスパニック系にエールを送っているのは彼らだけではない。移民を送り出しているメキシコの大統領もその一人だ。

 先週の水曜日、米国を訪れたメキシコ大統領フェリペ・カルデロンはカリフォルニアのメキシコ系移民団体のリーダーたちと会談したが、次のように述べたそうだ。

 「移民は米国とメキシコが現在もっている状況に明らかに合致して起こっている当然の現象である。米墨両経済は相互補完的である。それはまるで、靴の右足と左足のようだ。米国の経済は資本集約型で、メキシコの経済は労働集約型である。資本と労働は経済活動を生み出す二つの(生産)要素である。労働なくして経済成長が成り立たないのと同様に、投資なくして経済成長はありえない。このことが相互補完的である両経済において実現されることは、隣接している両経済圏でなされることを意味する」

 加えて、カルデロンは、移民問題は不法労働者の問題も含めて、両国の共通問題であるとアピールした。米墨両経済にとってメキシコ人ならびにメキシコ系米国人の労働力が極めて重要かつ不可欠であることを主張する。さらにこれに麻薬問題撲滅も絡めて、メキシコは米国ならびにカリフォルニアとより親密な協力関係を構築しなければならないと訴えたのであった。

 カルデロン大統領の発言はある意味まったく落ち度がない。グローバリズムの時代にマッチした完璧な発言内容である。しかしだ。彼の発言は、同胞である自国民を米国労働市場における単純労働力のコマに等しいと明言しているようにも受け取れるのだ。弱者の痛みが心底からわかっていない発言は万国共通の多くの指導者のそれにも見られるものであるが、所詮他人事のようにしか考えていないその態度に私は憤りすら感じるのである。しかも、この大統領発言に限れば、メキシコ政府は自国民の経済的社会的向上に対する責任と擁護を実質上放棄し、米国政府に丸投げに近い形で委ねてしまっているに等しいといえよう。

 アメリカかぶれのメキシコ人のことを皮肉混じりにvendido「買収された」という形容詞を使って表現するが、現在は国家レベルでも同様のことが起きつつあるのだろうか。今から160年前、メキシコ国民は「北の巨人」米国との戦争を支持し、戦いに挑んだ。当時も現在と同じく、国家の経済基盤も乏しく、兵力の面で劣っていたメキシコ軍の敗北は何よりもメキシコ人たちが予想していたことだった。しかしながら、誇り高きメキシコ軍人は国への忠誠と軍人としての威信に誓って、最後まで戦い抜き、見事に敗れ去ったのであった。その象徴がメキシコ国土の半分を奪われるという史上まれに見る屈辱であった。それでも、メキシコは勇ましかった。

 今日的な競争社会のなかではとりわけ、自己の保身を優先するために体裁をうまく整え、それぞれの時勢を乗り越えようとする強かさがどうも必要なようである。ときには自尊心や倫理観を捨ててまで生きようとするその様に腹立たしいほどの生命力を感じる。グローバル時代の国家もこれに同様である。そのために逆に勝ち組と称される人や組織や国家をその実態以上に過大評価し怪物化させている面があるのも事実である。しかも相手はすべてお見通しである。

                        【2008年2月19日脱稿/2月20日アップ】



メキシコで処刑された米軍脱走兵のアイルランド人

――サンパトリシオ大隊の悲話――

 最近ふとしたことから『ワン・マンズ・ヒーロー』(米・1998)という映画の存在を知った。これは米墨戦争(1846年〜48年)の時代、当時大量に米国へ移民してきていたアイルランド人青年たちの生き様を描いたものである。彼らの多くが米軍に入隊し、メキシコ戦争に参加するわけであるが、途中で脱走しメキシコ軍に入隊する者があとを絶たなかった。こうしてメキシコ軍のなかに、脱走兵で編成されるサンパトリシオ大隊(聖パトリック大隊)が誕生することになる。ところが、メキシコ軍は次々と米軍との戦いに敗退し、やがて戦局はメキシコ軍に不利になっていった。そして、ついにサンパトリシオ大隊も米軍の捕虜となるのであるが、最終的に、同隊の約50人が絞首刑に処されるという最悪の結末をむかえるのである。同映画はこうした実話にもとづいた内容となっている。拙編著『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るため55章』(明石書店・2005年12月)の第4章で私は米墨戦争について詳細に論及しているが、そのなかでサンパトリシオ大隊の悲話についても触れている。これを著したときに先の映画を知っていれば、おそらく同書のなかで紹介できたであろうが、不覚であった。まことに残念である。

 米墨戦争を扱った映画は先の映画以外に私の知る限りほとんど皆無である。それもそのはずで、同戦争はベトナム戦争と並んで、米国の政治外交史上の一大事件であったにもかかわらず、一方でその戦争行為は同国民のなかからも侵略戦争として批判されてきた、ある意味、米国史上の「汚点」とみなされる嫌いがある戦争だからだ。米墨戦争に勝利した米国は、当時メキシコ領であった現在の米南西部(メキシコの約半分の領域に相当する)を獲得し、今日の大西洋と太平洋にまたがる広大な国土を確立した。したがって、米墨戦争については学問上の蓄積がこれまでにも相当なされてきているにもかかわらず、同戦争を直接題材にした映画や小説は数少ない。利益追求を優先するコマーシャリズムに反するある意味タブーな行為は、それ相当の覚悟を制作側に求めたからである。しかし先の映画では、そのタブーが実行された。メキシコシティーに進攻してきた米軍スコット将軍に対し、同軍が脱走兵であるサンパトリシオ大隊を絞首刑や鞭打ちの刑に処することに断固として反対するメキシコ軍将校の姿が描写されているが、これは暗に米軍の行為が非人道的であることを批判するものとして理解される。加えて、とりわけ著名な俳優も出演していなかったため、同映画は世間的には特に注目を浴びるものではなかったようである(ちなみに、ライリー役は『プラトーン』でゴールデン・グローブ助演男優受賞したトム・ベレンジャー、ロマンスの相手であるメキシコ人女性マルタを、メキシコのベテラン歌手ダニエラ・ロモが演じている)。

「敗者」から見た戦争史

 戦争に限らず、世間のあらゆる人間の営みには勝負が伴う。したがって、かならず勝者がいれば、一方に敗者がいる。そして、勝者の言い分があれば、当然、敗者にも別の言い分があろう。しかし、通常、敗者の言い分は重視されないし、また敗者にその発言の機会が与えられることはきわめて少ない。それでも敗者の立場で意見を述べる必要があるといえよう。結果、敗者でも賞賛される場合がある。例えば、自国が戦争の当事国(者)の敗者である場合、自国の戦争責任者が自国民から批判されることもあるが、それ以上に、その指導者が擁護され、賞賛されることは少なくない。

 米墨戦争を例にとれば、勝者である米軍や米国人の立場を最終的には擁護する作品ならば、広く米国人に受け入れられるだろう。たとえ米政府を批判していても、戦時中政府や戦争指導者の僕であった個々の米兵の苦難や苦悩を公衆の面前で訴えれば、彼ら一般の米国市民は戦勝国の民であり勝者側に立っているとする一方で、実は敗戦国の敗者同様、彼らもまた戦争の犠牲者であり、社会の敗者、弱者であると認識され、同情や共感を寄せる者も出てくるだろう。

 しかし、『ワン・マンズ・ヒーロー』では、米国軍の組織上のハイラーキーのなかに人種差別を持ち込んだ米軍上層部を批判している。そして、この餌食となって虐められたアイルランド人を中心とする外国人がそれから逃れるように脱走し、最後は脱走とメキシコ軍に加担したという理由で死罪に処された彼らの悲運を映画の一貫したテーマとしている。加えて、カトリック信仰を背景にした隣人愛と、法に定める人道的配慮に基づいて彼らを擁護しようと努めるメキシコ軍やメキシコ庶民の描写シーンが導入されており、その点で異色の米戦争映画であり、画期的な内容である。米国人監督(ランス・フール監督)と米国資本(MGM)によって米国市場向けにつくられた映画だけに、作品自体の評価以前に、コマーシャリズムに反してまでも、自らの信念を貫き、これを作品に反映させたことに対して、まずは一定の評価がなされてしかるべきではないかと思うのである。

 さて、主人公はサンパトリシオ大隊の隊長ジョン・ライリー(John Riley)少佐(戦後、中佐に昇格)である。ライリーもアイルランド系移民であった。悲劇のヒーローとして賞賛されているのは、処刑されたサンパトリシオ大隊の兵士たち以上に、ライリー自身である。ところが、ライリーは鞭打ちの刑と脱走兵の烙印を押されただけで、死刑は免れたのであった。では、どうしてライリーが悲劇のヒーローとして伝統的に崇められてきたのだろうか。

 サンパトリシオ大隊はアイルランド人の米脱走兵の部隊であると一般に思われているが、実はアイルランド以外に、イングランド、スコットランド、イギリス、ドイツ、イタリア、フランス、ポーランド、米国、カナダなどの出身者で編成されていた。確かにその多くが米軍からの脱走兵であった。しかし脱走兵とは無関係の若干のメキシコ人も大隊に加わっていた。サンパトリシオ大隊の研究者ロバート・ミラーが用いた1847年の隊員名簿によると、126人の隊員の氏名が記載されているが、この数はライリー自身の発言にある200人以上という数値とは大きく隔たりがある。隊員名簿の126人中、アイルランド人は40人で、確かに最大の人数であるが、それは全体の半数に満たない。また同名簿から、126人中50人が1847年9月時点で絞首刑ならびに銃殺刑に処されたことがわかる。〔註1〕

 半数に近いものが処刑され、残りの半数がそれを免れた。そして後者のなかにライリーはいた。この線引きの詳細についてはあえてここでは触れないが、部下の刑の執行を阻止できず、その後も人目を避けて生き続けたライリーの人生はおそらく屈辱的人生ではなかったかと推察されるのである。死を天命として受け入れた部下たちの方が英霊として世間で賞賛される一方、生に甘んじている自分の愚かさと恥辱に苦悩し続けたことだろう。

 しかし歴史上、後世の私たちの記憶に残っているのはサンパトリシオ大隊とジョン・ライリーという個人名だけである。無念にも犠牲となった20代の若者たちの個々の名前がたとえ何人かでも具体的に記憶されていることはきわめて稀なことである。

 それはなぜか。皮肉なことに、無念の死を遂げた若者に対する強烈な衝撃はそのとき鮮明に記憶されるものの、やがては人々の脳裏から少しずつ薄れていくものである。人々の記憶は永遠ではないし、人間には不本意にも薄情なところがある。だからこそ、それを伝える記録を残して後世に語り続けることをしなければならないと私は考えるのである。それができる人物こそ、まずは「生きている」敗者なのである。

 運よく「死」を免れ「生」を甘受することになった屈辱的敗者の生き様に、個人的には共感する部分が多く同情の念をもっているし、彼らの功績や苦悩を否定するつもりは毛頭ないが、そこをあえて逆説的で酷な話をすれば、人目を避けて韜晦(とうかい)するのではなく、世間の罵倒や批判にも耐え忍び、その一方で、社会に対する説明責任を果たし続けることこそが、自らに課された宿命であると自覚しなければならないのではないかと考えるのである。そして、その尽力がやがては時代の経過とともに、社会から「承認」される機会をもたらすことにもなりかねない。だからこそ、死の選択をもって償うことで心の闇から解放されるなどという、甘んじた考えは彼らには許されないのである。

 ジョン・ライリーは戦後2年ほどメキシコ正規軍の中佐を務めたが、1850年以降の彼の行方はほとんど不詳である。アイルランドにもどったという説が有力であるがそれも十分に立証されていない。また、映画のなかでも描かれているメキシコ人女性とのロマンスも従来メキシコ人が好んで用いてきた架空の話という見方が有力である。

 幸いにもジョン・ライリーの名はメキシコ政府が1959年にメキシコ市サンハシント広場にサンパトリシオ大隊を称える記念碑を建立し、盛大な式典を行ったために、以降その名は有名になった。1997年には当時のセイディージョ大統領が米墨戦争150周年記念の一環として同様の式典を行った。ところで話は全くかわるが、ライリーについて書いていると、会津戦争のことを想起する。会津白虎隊で戦死を免れ自害しなかった少年兵、酒井峰治〔註2〕、飯沼貞雄(貞吉)、そして会津藩主松平容保(かたもり)にしても、逆賊の汚名を被り、世間から隠れるようにして、苦悩に満ちた逆境を耐え抜かねばならなかったと思う〔註3〕。彼らにしても、ライリーにしても、酷な言い方をすれば、社会的責任を取る努力は目に見える形ではほとんどなされていない。後にこれらの敗者に一定の評価がなされたのは、まぎれもなく後世の優れた人格者による配慮と尽力のおかげであった。米墨戦争でもメキシコ士官学校の少年兵がチャプルテペック城の戦いで戦死、自害した同様のエピソードがあるが、白虎隊にまつわる話に重なるものが多い。これらの少年兵は後にニーニョス・エロエス(Nin~os He'roes)、つまり「英雄少年」として認定された。今日チェプルテペック公園にその記念碑が建立されている。奇しくも、サンパトリシオ大隊の処刑とニーニョス・エロエスの死は同じ日に起こった出来事だった。

                       

〔註1〕Miller, Robert R., Shamrock and Sword: The Saint Patrick’s Battalion in The U.S.-Mexican War (University of Oklahoma Press, 1989).

〔註2〕酒井峰治の手記は1993年になって発見されたという。小桧山六郎編『会津白虎隊のすべて』(新人物往来社、2002年)、266-267頁。

〔註3〕明治23年に建立された白虎隊碑には松平容保の歌が刻まれている。

「くもりなき 月日は照せ 国のため さらし屍 朽ちはつるとも」

                       【2008年2月9日脱稿/2月19日アップ】



<抄訳> 
「異説」 エルネスト・サバト著(抜粋)

男は奇想天外…

 感性は直線的ではなく、弁証法的で逆説的である。男性はつねに論理的で現実的な前提から出発し、真の狂気、空想(ファンタジー)、風車小屋に立ち帰る。パルメニデス(訳者説明:紀元前5世紀頃のイタリア生まれのギリシアの哲学者、エレラ学派の祖)、コロンブス、ドンキホーテ、ナポレオンがその例である(誰が言ったか知らないが、次のような言い伝えがある。ナポレオンはナポレオン自身が自力で生み出した狂人だった、と)。他方、女性は非論理的で、非現実的で、無分別である。しかし、激怒という、現実的で保守的な感情をあらわにしつつも、個々の小さな無分別な事柄に執着する。

 したがって、男性は現実から空想へと、外向きに進む。

 女性は空想から現実へと、内向きに移動する。

論理と洞察力

 男性は抽象的なもの、純粋なイデア(観念)、理性、論理の世界に関心が向けられる。女性は具体的なもの、不純なイデア、非合理的、直観の世界の方に興味が向けられる。

 本能は非論理的であるが、人生の問題には本能はうまく働いている。科学者や哲学者ほど、日常生活において奇怪な人間は存在しない。彼らは無限大の世界に通常関心をもっているので、3次元の世界では絶えずつまずいているか、あるいは現世における科学や哲学の影響力について忘れているのである。

 男性は合理的で抽象的なものだけを信用している。だから、科学や哲学の大きな体系のなかへ自ら逃避するのである。したがって、この体系が崩壊すると、<つねに起こっていることだが>失望し、懐疑的になり、自殺願望までもいだくのである。他方、女性は、非合理的なもの、神秘的なものを信用しており、だから、それを信じないでいることは難しい。現に、はじめて見たときの直感で感じたものよりも不条理で馬鹿げたことに直面することはない。

女性の男性化

 西洋の男たちはカネと理性を用いて、極めて男性性の営みである、全世界の支配を実現した。現世界がこうして構築されたのであるが、そこには一方で資本主義が存在し、他方で実証科学と数学が支配している。両方の男性性の産物は本来別々のものであるが、悲しきかな、これらは人類の具体的な現実社会から生まれた。こうしてわれわれは現代人の過酷な二分法に行き着くのであり、これは全く非人間的なものである。つまり、一方で数的記号の世界が確立しており、他方でその体系によって支配されている世界が確立しているのである。肉と骨の生身の人間は、まるでモノ同然と化している。最終的には卑屈で無能なカフカ的主人公になっていくのである。

 しかし、現代の危機は同時に性や制度の危機であることに何ら驚いてはならない。何世紀もの間抑圧されてきた女性は、卑下され、軽視され、そして置かれた状況を恨んでいる。そのため、男性性の文明社会に対して、女性が極めて不幸で逆説的な「妥協」をしたということを女性自身が認めることなく、単に女性運動を武器に(権利の主張を求めて)反旗を翻すことだけを好んでいる。マスクリニスモが関係しないフェミニスモなんか存在するのだろうか。

 女性の男性化は性生活の不均衡を導く。それは集団ノイローゼと、結婚生活の危機という状況を見ると明らかである。大多数の都市部の結婚生活は幸せとはいえない。いたずらに不幸の基盤の上に立っている確立された諸制度を維持することはできないであろう。それらの制度が正しく機能していないと判明したときは、制度それ自体の存在が限界に到達したことを意味する。

 中世の婚姻関係では、女性が男性の僕であったが、しかし現実には世界の中心であった。だが現代の婚姻関係では、「自由」の表徴のもと、本当に、男性性の社会的状況に女性はまるで奴隷のように従属しているのである。理性とカネから成る文明社会が発展し続けるうちに、大きな不快な要因が導かれ続けている。そして結婚生活はやがて崩壊する。これに代わるものは何か、今後の社会において、どのような物質的精神的変化が試みられなければならないか、まさに自己に問うべきときが来ているのである。

 現代文明は女性を男性化させ、深刻な精神的状況をともなって、その存在の本質、つまり、いかなる社会も文化も世の中の道理に逆らわない限り容易には変えることができない生物学上の本質を歪曲させてしまった。この現代社会の根源的な危機が克服されなければならないということならば、女性性をもつ女性を再び呼び戻さなければならない。これは同時に男性も、今提唱している、現状とは正反対の社会的体系を実現しなければならないということを意味しているのである。われわれは抽象的なものを軽視することなく具体的なものにも関心を再び向けなければならない。そして、論理と生、客体と主体、本質と存在を統合しなければならない。別の言葉でいえば、理想的な真の男性性に有利なように男性と女性を二分化するのではなく、男性と女性が手を取り合い結束することを尊重するような社会を生み出さなければならないと考える。

*本テキストの西語原文は07年度神奈川大学外国語学部スペイン語学科で筆者が担当した「現代スペイン語原書講読」の授業で使用した。


                                      【2007年12月16日アップ】



これこそ異文化摩擦!

 最近、おもしろくて2、3時間で一挙に読み終えた本がある。それは、私より少し年下のM氏が「高学歴ワーキングプア」とまで言い切っている大学非常勤講師の悲惨な生活の実態に関する新書である。私も彼のような勇気?があればぜひ書いてみたいと前から思っているテーマであり、実際すぐに書けるほどのネタもたくさん持っている。まずはM氏の勇気と尽力に敬意を払いたい。先手を取られた感がしないでもない。そのうえで、M氏はどのような目的や意図でこれを書いたかを知りたいと思った。別の言い方をすれば、人が何かを著すということは、読者の存在やその反響を念頭に置いているはずである。もしそうでなければ、それは単なる自己満足である。それもそれでよいかもしれないが、少なくとも、コマーシャリズムの傘下にある現世がそれをサポートしないだろう。著者は果たして誰を「読者」として念頭においているのであろうか。

 「読者」は同書を購入することが見込まれる者である。つまり同書のデータを用いると、著者と同じ立場にある博士号取得者で正規雇用にない1万2000人〜1万5000人か、それとも著者は数値を出していないが、その数倍存在する無職のオーバードクターか、あるいは“使い捨て資源”の研究員や非常勤講師か(いずれも著者の表現のままである)であろう。ある統計によると、非常勤職のみの大学教師の数は7万1555人(04年文部科学省『学校教員統計調査報告書』)に上るといわれており、その意味で十分な「市場」が見込まれる。

 当然、著者は当の大学組織や専任教員は重要な読者層として期待していないであろう。それもそのはずで、「高等教育を牛耳る者」「学生は大学の金づる」「大学は生き残る選択として、もはや“教育”ではなく、“商売”に精を出すことに必死」「学生をカモにする法人」と批判されている大学当局が少なくとも著者のような「過激な?」非常勤講師に同情し、この状況を反省し改善しようとすることはあまり期待できないであろう。たとえ理解を求めようとする著者の意思の表れゆえの批判であるにせよ、その逆の効果を生む可能性が大きいように思えてならない。著者がわれわれと同じ大学業界に籍を置き、そこから少ないながらも恩恵を受けている人間の発言であるからこそ、その風当たりは大きいといえるのである。被雇用者が雇用者に申し立てをすることは法律が認める当然の権利ではあるが、日本の風土ではそれ相当の覚悟をもってやらなければならないようである。

 日本の土壌で生活する一般の日本人のコミュニケーションと、いわゆる欧米型のコミュニケーションは同じではない。後者が比較的にダイレクトであるのに対して、日本人はオブラートにつつむ傾向があると思う。外国人から皮肉混じりに、日本人は言いたいことも言えず自分を殺しているというマイナス的な評価もあるようだが、決してそうではない。日本人はオブラートにつつんで「巧みに」表現する技を本来持っていたはずである。有名な歌人の短歌や俳句を例にあげるまでもなく、喜怒哀楽の気持ちをいかにダイレクトな表現を使わずに、いかに表現し読み手に伝えるかを楽しんで試行錯誤してきたのである。そこには日本人の知的さと心の余裕があった。

 先日、在日外国人に関するシンポジウムに参加した。比較的外国文化に興味があり、外国人に対して好意的である私でさえも、一般的な日本人が聞いたら少し不快に思うだろうと感じたことがあった。それは、当日参加していた一部の外国人の発言であったので一般化することはできないが、強烈な自己主張がなされていたことである。日本において能力があるにもかかわらず日本人と対等に扱われない等、その置かれている悲惨な環境の改善を求める悲痛な叫びである。まことに気の毒であり、同情したい気持ちは山々であったが、反面、日本政府や日本社会を過度な口調で批判する発言は日本人からすれば正直気分のよいものではなかった。発言の内容やその表現方法の度合いが過激になればなるほど、聞く耳を持とうとしている者ですらも一歩引いてしまうことが懸念された。ここは日本で、あなた方は外国人ではないか、と。共生を提唱する立場にある自分が、はずかしいことに、いつのまにか彼ら彼女らを他者化してしまっていた。異文化コミュニケーションの難しいところである。無論、このことは相手が外国人の場合だけでなく、日本人同士に対しても同様のことが言えるであろう。

                          【2007年11月27日脱稿/12月5日アップ】



メディアと他者化の再生産

 多文化主義ではマイノリティ文化を尊重するのが建前である。そのため、マイノリティの排除には制限が加えられたが、他者化が完全になくなることはなかった。権力を有する側が非権力者に対して従来もっている固定したイメージや、これによる他者化がなくなることなどありえない。結果的に、エスニック固有の文化を認めることは、他者化・差異化を維持ないし高める結果を生んだのである。

 ところで、メディアはこの他者化を推進する媒体であった。メディアの本来の役目は情報の提供・公開、あるいはそのアーカイブ化(記憶化)にあると考えるが、これに別の意図が加わると結果次第では厄介な代物と化す。主観や先入観が先行してプロデュースされ編集された作品には、他者化や差異化の再生産や強化という効果を生み出す内容が映し出されているからである。実際メディアによる情報伝達は人間の思考を支配する場合が多い。映画やテレビなどのマスメディアにおいては、製作者の意向が演出によって映像化され、編集されるが、これを見る視聴者がすでにもっている主観と合致する、あるいは視聴者が「批判」の気持ちを持たず身構えていない場合、理解可能な範疇にあるものに対しては何の疑いをもつでもなく、すんなり受け入れてしまいがちである。製作者の意向とは、製作者の社会的立場や地位、あるいはコマーシャリズムを意識した消費者の反応に応えることを優先する考えである。時として、否、従来よくあることだが、これに政治的な意図や権益が加わる場合がある。したがって、製作者個人の人生経験などから培った物の考え方や理念が先のものに合致していればさほど問題はないが、そうでない場合は、あえてそれを表に出すことを控えることもありうるのである。これには個人の思惑以上に、ほかの社会的圧力が働くことが決して少なくない。

 例えば、映像が映し出すヒスパニック像は基本的に一つであり、いわゆるステレオタイプを形成してきた。一言で言えばそれは、黒髪の浅黒いスペイン語話者であり、この基準に合致する場合「メキシコ人」と位置づけられ、他者化されてきた。このメディアの社会的影響はそれまでの現実の社会での他者化、排除化を強化するものとなった。メディアが映し出すヒスパニック系のステレオタイプ的人格とは、ヒスパニック男性は女性に愛情を施し、やさしくエスコートできるドン・フアン的な男性像(ただし、スペイン人で教養のある男性に対するイメージ)である一方で、短気で暴力的な男性像も頻繁に見られる。これは貧困や暴力と結び付けて道理付けられている。一方、ヒスパニック女性はリタ・ヘイワースに見られるような情熱的で母性を感じさせる強い女性像、あるいはカトリックの教えを頑なに守る貞潔のイメージがある一方で、短気、無教養、粗野、従属的など負のイメージがステレオタイプとなっている。映画のなかでヒスパニック系が主人公ないしは脇役で出演する映画の多くは「暴力」や「貧困」がその背景にある場合が多いが、実はこれが観る側にとってわかりやすい状況設定になっている。同じ背景をもっていてもエンターテイメント的な「アクション」映画ならば、これらのマイナス的な情況がさらに一般に受け入れられやすいものになっている。

 映像のなかには例外的に「越境」を試みて通常のヒスパニック像から逸脱しようとする者も登場するが、その越境はそれほど容易なことではなく、多くの場合、暴力、犯罪、家族の不和、別離、死など、何かの犠牲や代償を払ったうえでの条件的成立である。しかし、それは当然といえば、当然である。これはエスニック・マイノリティだけでなく、あらゆる社会的弱者に課された基本的な宿命であり運命であると、観る側はそのように理解しているのが常である。何の惨事もハプニングも起こらない平和的で平凡すぎる内容では、少なくともマイノリティが主要なテーマである映画としては「オモシロク」なく、コマーシャリズムや大衆の反応をあまり意識していないことになるのである。

 しかしながら、意図や先入観に基づく描写部分は時としてそれが誇張しすぎる面を差し引いても、必ずしも完全な「虚構」とはいえない。偏見、先入観、誇張など極度な色眼鏡で描写された部分を取り除くと、そこには真実が残っているはずだ。その一つ一つの断片を拾っていき、映画から見て取れる真実を読み取る「見る目」を鍛えることが必要である。そのためには「批判の目」を忘れないで映像の世界に入っていくことである。

 例えば、『ラ★バンバ』(1987年制作・米映画)は実在したメキシコ系(チカノ)のミュージシャン、リッチー・ヴァレンスの物語である。彼は映画と同名の音楽で短い期間であったが一世を風靡したが、チャーター機事故で17歳の若さでこの世を去った。この物語はフィクションではない。実在した人物のノン・フィクションである。さて、自書(共編著)『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』(明石書店)のなかで、私はこのリッチー・ヴァレンスの生と死について論じている個所があるが(同書319〜321頁)、彼の栄光と死によるその挫折を、越境とその代償という観点で説明している。自分で書いていてこういうことを述べるのも何だが、もし映画が彼の死まで扱わなかったらどうだったろうか、要するに、彼の栄光の日々の延長線上に「死」を取り上げなかったら、また別の見方ができるのではないかという疑問が残る。

 事件が起こった50年代後半に限らず、昔は飛行機事故が今以上に頻繁に起こっていた。実際、政治家や芸術家など多くの有名人もこの犠牲になっている。すぐに頭に浮かぶのはアルゼンチン・タンゴの巨匠カルロス・ガルデル。また個人的に思い入れがあるI Got A Nameを歌ったジム・クロウチを想起する。彼も73年の飛行機事故で30歳の若さで亡くなっている。

 リッチーと同乗していたバディ・ホリー(ビートルズにも多大な影響を与えた)とビッグ・ボッパーも将来有望視されていたが、彼ら若きミュージシャンも同じように亡くなっている。白人である彼らとリッチーをひとまとめにして、人気上昇中でこれからが期待されていた10代後半から20代前半のミュージシャン3人が不慮の事故で死んだという捉え方をすれば、どうだろうか。そこにはエスニック概念はなくなり、人の死に対する悲しみだけが残る。要するに、マイノリティのリッチー・ヴァレンスの越境の挫折は彼がマイノリティであるがゆえに越境が否定されたのでなく、チャーター機事故に偶然遭遇したための挫折であったと考えるとまた別の見解ができる。科学技術の進歩とその日常生活への浸透の一方で起こっている代償としての惨事に対する批判や憤りこそあっても、彼のマイノリティ性が否定されることはなくなるわけである。しかし、これではヒスパニック系マイノリティを主人公にした「物語」としては極めてお粗末になるのである。

 『ラ★バンバ』と同じ年に発表された『ボーン・イン・イースト・LA』(1987年製作、米映画)はその点で「オモシロイ」。この映画はメキシコ人不法労働者に対する他者化、排除化が広義の「メキシコ人」に自然と適応している白人社会の実態をコミカルに描くことで、徹底した社会風刺の作品にできあがっている。メディアが通念を逆手にとってもう一歩踏み込んで描写することで、反対に権力側の白人や国家に対する批判をおこなっている。

 メキシコ人不法労働者が最も多く存在していることが見込まれるカリフォルニア州の繊維工場では、アジア系などの他マイノリティをかき消すかのように、メキシコ人不法労働者の潜伏場所というイメージが支配している。繊維工場という空間に、ミグラという国家権力下にある入国管理局が介在することで、繊維工場のなかにも強者と弱者との構造が生まれ、弱者は不法メキシコ人として他者化されるのである。同映画はメキシコ系アメリカ人であるルーディが不法メキシコ人として間違えられ、メキシコに追放されるという惨事をコミカルに描いたフィクションである。しかし、フィクションのなかにリアルな部分がふんだんに見え隠れしているのである。ルーディを演じるチーチ・マリン自身がメキシコ系米国人のコメディアンで、この映画では監督や脚本も担当している。ルーディはアメリカ国籍をもっているが、容貌がいわゆるメキシコ人のステレオタイプに合致していた。しかも従兄弟のハビエルを迎えに繊維工場という空間にルーディは居た。かつ、身分証明書を家に忘れてきていた。こうなると、強者の先入観と論理が先行し、もはやルーディが米国生まれの訛りのない流暢な英語を話しているという事実は完全に無視され、彼は権力構造のなかに弱者として位置付けられるのである。しかもこれに追い討ちをかけるように、犯罪歴プロファイルに同名のファイルがあったことで、彼は「メキシコ人不法労働者」として認定され、メキシコへ強制送還されるのである(詳細は前掲書、329〜333頁)。

 この映画では、通念となっているメキシコ人に対するステレオタイプ、偏見、差別、蔑視などの描写シーンを「笑い」の材料としてふんだんに取り入れていることから、一見、従来通りの強者によって制作された映画のように映るのだが、映画はさらに一歩踏み込み、それを逆手にとって、強者の強引な他者化、差別化に対する批判を加えている。後者の具体例として、杜撰なプロファイル、それを平然と行使する上級役人、ひいては国家権力に対する批判を皮肉たっぷりにユーモアやジョークを交えて行っている。加えて、怠け者で無教養なメキシコ人像を覆すかのように、子供の教育や躾に厳しい母親や、米国に越境するために真面目に国境付近のティフアナで仕事に精を出す若い中米出身の女性などを登場させて、従来のステレオタイプの修正を試みようとしている。

 ところが、先日、『トラフィック・オブ・メキシコ』(原題 Mexico City: 2000年制作・米墨合作)を観て、私は再び原点にもどってしまった。観光旅行で姉妹がメキシコシティーに到着した直後、弟サムが突如失踪したことからストーリーは始まる。姉ミッチはサムの行方を調査してもらうために米国大使館に出向き相談するが、誠意ある対応がなされなかった。そこで、あることから知り合ったメキシコ人タクシー運転手ペドロとともにメキシコシティーをくまなく探すことになる。やがて、メキシコ警察が絡む巨大組織の誘拐殺人事件の現場に遭遇したサムが事件に巻き込まれたことを知る。

 まず驚いたことは、米墨合作の映画にしては、メキシコシティーが巨大犯罪都市で、その黒幕がメキシコ警察であるという設定であることだ。これまで述べてきた流れから言えば、これはフィクションであり、誇張や先入観が多分に含まれた大胆な描写なのであるが、しかし全くの「虚構」であるかといえば、完全には否定できない何か蟠りが残るのである。それはなぜか。メキシコ警察に限らず、ラテンアメリカ社会の現状を少なからず知りうる私の主観や先入観がそうさせているだろうか。したがって、映画には生のメキシコを映し出そうとするリアルさを感じる部分もあるのである。これほどまでにメキシコシティーの街中がよく描写されている映画も珍しいのではないかと思う。同映画が米墨合作であることを知り、私は即座に、メキシコ人はこのような描写に違和感は持っていないのかと疑問に思った。

 しかし、この問いはすぐに解決した。米墨合作とはいえ、監督は米国人(リチャード・シェパード)で、主要制作スタッフもほとんど米国人である。合作となっているのはおそらく撮影現場がメキシコであったために、メキシコ人俳優やスタッフなどの参加や協力があったためであろう。したがって、実質上米国の映画である。そうなると、映画の製作背景がわかってくる。

 加えて、最後の場面で、メキシコ警察を敵に回したミッチとペドロは、警察から追われる身となった。警察がメキシコシティーのいたるところで検問を行って操作網を張っていたが、これから逃れるように、ペドロのタクシーで二人は北上して米国との国境までやってくる。そして国境の検問所が見えたその手前でペドロに別れを告げ、ミッチは一人手をあげながら目の前のメキシコ側の検問所の制止を無視して、米国側にゆっくり歩き出す。その一方で、メキシコ側の国境警備隊はミッチに銃を向けながら制止を警告する。この異変に気づいた米国側の検問所の警備隊がミッチの背後から彼女に銃を向けているメキシコ警備隊に対して銃を向け威嚇する。このあいだ沈黙が十数秒続き、やがてミッチは無事に米国当局によって身柄を拘束される。この沈黙のあとに何が起こるかを期待していたが、メキシコ国境警備隊があっけなく構えている銃を下ろし、引き下がるという展開だった。いかにも米国の勝利と正義を謳っているかのようなエンディングに、19世紀中葉の米墨戦争もそうだったが、それ以前の時代から今日までずっと長い年月をかけて形成され固定化され続けてきた先入観や偏見、強者の論理、ならびに現代コマーシャリズムという大きな障壁の存在を感じずにはおれなかった。

                           【2007年11月6日脱稿/11月17日アップ】



狭義のメキシコ人と広義のメキシコ人

メキシコ人とは誰のことか

 「メキシコ人とは誰か。」この問いに対してごく普通に答えるならば、メキシコ人とは、メキシコ国籍を有する者である。加えて、自分自身でメキシコ人としてのナショナル・アイデンティティをもっている者である。しかし、メキシコ人が他者化の対象となる場合、話はさらに複雑になる。他者化を行う主体が置かれている文化的背景、社会的状況、主観・偏見の度合いなどによって、メキシコ人とは先に上げた規定だけで語ることはできない。つまり、「メキシコ人」というのは、他者化・差異化の対象となる客体の「身体」につけられた記号であり、その記号には、スペイン語話者、浅黒い肌、髭、黒髪、スペイン系の名前、さらには貧困、無教養、犯罪などの負の記号内容がふくまれているのである。また、この記号内容をもつ地理的空間はアメリカ合衆国の「南」(スール)、ラテンアメリカ・カリブ海域全体をさすのである(ただし、典型的なメキシコ人の容貌をしている概してメスティソがその国の構成員であるというイメージでラ米を捉えている)。したがって、このような記号によってあらわされる他者化のプロセスでは、先に述べたメキシコ人を大幅に上回る多数の「メキシコ人」がつくりだされるのである。たとえば、アメリカ生まれで米国国籍のヒスパニックや、中南米・カリブ海域出身者(キューバ系、プエルトリコ系、ドミニカ系など)も、スペイン語話者で肌が浅黒いだけで、「メキシコ人」という記号の支配から逃れることはできないのである。(同様に、スペイン語話者でも黒人ならばヒスパニックではなく、「黒人」であると見なされる。)白人にとって、「メキシコ」や「メキシコ人」は「南」からの越境者として他者化される対象をさす代表的な記号なのである。

 移民国家アメリカでは1970年代以降、多文化主義政策を実施した国家はマイノリティの「文化」的慣習(言語を含めて)を認める一方で、国家権力の下に位置付けられる臣民になることをマイノリティに余儀なくさせた。その意味で、多文化主義は文化的多元主義といえる。「メキシコ系米国人」という名称はマイノリティのアイデンティティの表徴であり、マイノリティを擁護するものであるという解釈もあるが、反面、米国国籍をもつ市民でありながらも、「マイノリティ」「非白人」として位置付けられ、つねに他者化の対象であったといえる。「メキシコ系」という記号は米国多文化社会のなかでコインの裏表のような役割をしている。つまり、それは、メキシコ系自身による主体性の表徴としての名称と、一方で、「メキシコ系」という負の意味を有する他者化の対象に付ける記号であった。そして後者は権力をもった主体による他者化であり、これが前者よりも概して優勢なのである。

他者化の基準としての差異化

 他者化は、文化的・社会的構造とその環境において、歴史的につねに繰り返し行われてきた。他者化による負の記号や言説は、つねに権力を有する主体によって作り上げられてきた。権力をもたないものが権力者に対して他者化を行い、それに基づく言説を述べることは少なからず存在したが、その多くは失敗に終わり、従来の支配構造である文化的構造や通念を覆すことはそれほど容易なことではない。

 また、他者化には差異化が伴う。この対象になるのは、第一に、表面的に誰でも見える部分、つまり「身体」的特徴(髪の色、皮膚の色など)、および「身体」の一部でもある言語や慣習の違いである。白人と黒人との対比はその典型的な例であるが、メキシコ人は黒人ほどではないにしても、それに匹敵するほど他者化の対象になる場合が多かった。メキシコ人のことをglacierと呼ぶのも、肌の色が黒人に近いので、その「黒」の肌を負清潔なイメージで見ることが多いからであろう。一般にメキシコ人はタコスを毎日のようによく食べているが、タコスを路上の屋台で食べる光景は、「南」の異国の光景として様になっているかもしれない。だが、通常のマナーや衛生や環境などの面から肯定的には受け取られない場合も少なくないであろう。さらには、メキシコの後発性や野蛮性にまで結び付けられて理解されることもあるのだ。

 しかし、このような慣習の違いは相互が社会的空間を共有することがなければ全く問題のない話である。例えば、旅先で先のような光景に出くわすのと、日常生活での公共空間のなかでその光景が見られるのとでは、その受け取り方は当然違うからである。その意味で、非白人の人口増加、アファーマティブ・アクションになる就職の機会均等などによって、白人と非白人との空間の共有は増えてきており、後者の状況が米国社会のそれである。かつてメキシコ人は白人の仲間入りが認められた時代があった。1920年から30年代にかけて、メキシコ人労働力が中国人や日本人にとってかわる安価な労働力として、米国の労働市場で重視された時代の話だ。事実、ブラセロ計画と呼ばれるメキシコ人の季節労働者の受け入れ協定は第二次大戦以降成立した。このように、メキシコ人の労働力なくして米国の資本主義経済は成立しないという経済的状況があったため、メキシコ人を排除せず、アメリカ社会への同化をかれらに促し、また白人は彼らと自分たちとの共通項を見出し、彼らを受け入れようとしたのである。それが、たとえば、メキシコ文化におけるスペイン文化の源流、要するにヨーロッパに起源をもつという共通項を軸に、相互理解と共存に努めようとしたことに見られる。

 かつて戦時中、植民地の外国人男性や女性が国家によって戦争に動員されたという経緯があったが、このことからもわかるように、国家の利益に結びつく人間に対しては、外国人であろうが、非白人であろうが、それに対する他者化が完全になくなることはないが、他者化や差異化は緩和され、排除化されないということはあるのだ。しかし、人間は本能的に差異化による他者化を行う生き物であり、それが自己の空間へ侵入してくる場合は、当然ながら、他者化は排除化にかわりうるのである。

 さて、メキシコ人の米国への流入が様々な社会的問題や不安を引き起こし、白人の空間を脅かす存在となったとき、メキシコ人に対する排除化は再び高まった。1964年にはブラセロ計画が中止され、しかもメキシコ人の米国入国の制限をより厳しく取り締まった。だが、この時代は公民権運動の隆盛期で、白人はマイノリティによる白人中心の権力中枢への攻撃を恐れ、表面的には法的な譲歩の姿勢をみせたものの、白人の脳裏には、マイノリティはマイノリティとして他者化され、危険視する者も少なくなかったと推察される。その後の1970年代以降実施された多文化主義は、まさに権力者による非権力者に対する他者化を推進する結果となったのである。自己の空間と共有する外敵は他者化の対象であり、多文化主義は白人の空間を防衛するための折衷策であったと考えられる。他者の「文化」を尊重することは、主体と他者との「境界」を形成するものであったのである。

                            【2007年10月9日脱稿/10月16日アップ】
 

*筆者が以前スペイン語で発表した小論 ?Quienes son mexicanos?(メキシコ人とは誰か)〔Revista de Estudios Hispanicos de Kioto, no.7 (septiembre de 1999), pp.13−23〕で述べた内容と一部重複するが、本稿のために大幅に加筆修正した。



社会における他者化と排除化

 世の中には「自分探し」に苦悩しているものが実に多い。自分の教え子の学生を例にとっても、登校拒否や長期休学の学生、あるいは、バイトばかりに熱中し学業不振に陥っている者が少なからずいるが、彼らのなかにも、そのような学生は多い。「自分探し」とは、大抵は、自分という存在に自信を見出せないでいる場合で、同時にそれが不満であるときに起こるものだ。満足している場合に人は敢えて「哲学」(逃避?)を試みないからだ。自分の存在そのものが他者に、あるいは広義では社会的に、どう見られているのか(評価されているのか)、また、その悲惨で不満な現実を打開し、それにかわる満喫できる「幸せ」な人生とはいったい何か、また、それをどのように切り開いていくべきか、が分からず試行錯誤するのだ。最近では、自他関係において、概して他者の立場を軽視し自己中心的に物事を考える者が増えてきているように思うので、自分探しにおいても、他者の評価はどうでもよいと考えている者が少なくないようだ。しかし、やがて生きがいとなる人生の目標が定まり「自分探し」の第一歩を踏めたにせよ、次にその理想と現実との乖離に苦悩する場合も多く、ここで他者や他者評価は障壁であり、無視できない厄介な存在として認識せざるをえないのである。

 「私はいったい何者なのか」
 「私はどうあるべきなのか」

 哲学や思想の学問的軌跡をみてもわかるように、この命題に対する諸賢人の論争は絶えない。今日世界中の地域社会にまで拡張するグローバル化(経済的、文化的、さらに政治的に)の影響を受け、トランスナショナル、トランスジェンダー、異種混交、多文化主義など、まさに「融合」と「多様性」に象徴される社会的現象が起きており、同一性、均一性を主流とする既存の保守的な障壁を打ち破ろうとする動きに人々の注目が集まってきているようだ。しかし、これが近未来社会の進むべき唯一の方向ではない。これとは逆に、反作用としてはたらく力や理念が依然根強く残っているし、また別の全く新たな道を模索する動きもある。

 このように自由意志が尊重される現代社会において、様々な意思や主義をもつ者が互いに衝突しあっているわけで、その意味で不安定要因を社会に与えている。そこで、各々が、自己と、自己の空間を守る(経済的には自己の利益を守ると置き換えても良い)ことを最優先したうえで、平和で自由な社会の再構築を主張しているのである。社会の変動期や移行期において、恒常的に社会が不安定になりがちであるが、自己の空間を維持し安定な(社会的、生活的)空間を確立することはおそらく多くの人が最も願っている早急の課題のひとつかも知れない。

 自己と、自己の空間の維持、保護のために、まずは自分の帰属について考え、その共同体への忠誠心を明確にすることから始めることだろう。共同体の成員になってはじめて共同体のもつ効力によって他者を排除し自己の空間防衛が可能になることを知りうるのである。

 ところで、自己を知るということは同時に他者を知ることでもある。自己と他者との相違が差異化、そして後の他者化の作業に結びつくのである。他者化はその先に他者の排除化を招く場合がある。自己と自己の空間を守る場合、その空間を脅かす存在に対して法や権力に訴えることも可能であるが、その排除化の理由を第三者に周知させ、正当化させる風潮を巧みに操作し作り出すことは有効な方法である。

 問題なのは、極度の主観が介在し、場合によっては歪曲されるために、他者化の対象が広げられることである。また他者化のプロセスにおいて、偏見や差別、あるいは「歴史」によって複合化された「文化」が支配しているので、多くの他者化、差異化はそれを行う主体の主観が含まれているのである。そして、この主体が権力を有する強者である場合は、強者の作成したテクストが正当性を帯びたものとなり、人々の思考を支配するのである。

*筆者が以前スペイン語で発表した小論 ?Quienes son mexicanos?(メキシコ人とは誰か)〔Revista de Estudios Hispanicos de Kioto, no.7 (septiembre de 1999), pp.13−23〕で述べた内容と一部重複するが、本稿のために大幅に加筆修正した。



                           【2007年9月5日脱稿/9月9日アップ】



ガス・ヴァン・サント『マラ・ノーチェ』と
アルモドバル『ボルベール』

 およそ1年ぶりのエッセイである。言い訳がましいが、多少の時間はあっても精神的に余裕がないとなかなか文章は書けないものだ。いや、本当のところは書くネタが見つからないのだ。なぜなら、感動するような日常生活を送っていないからである(笑)。よくないことである。今年はこれを改めようと思っている。そこで、久しぶりに映画を立て続けに観て思いに耽ることがあったので、少し書きとめておこうと思う。まさに初心に帰って(ボルベール)!

                *    *    *

 両方とも夜の渋谷の映画館で観た。『マラ・ノーチェ』(最悪の夜)はメキシコ系不法入国者である少年に恋する白人男性の話である。ウォルト・カーティスが書いた同名の小説をもとにしているが、彼自身の自伝であるとされている。ガス・ヴァン・サントは故リバー・フェニックスとキアヌ・リーヴスを一躍有名にさせた『マイ・プライベート・アイダホ』(91年)の監督といった方がわかりやすいかもしれない。『マラ・ノーチェ』は初の長編映画で1985年に制作されたモノクロ作品である。「メキシコ」とか「不法労働」とかに目がない私はストーリー云々に関係なくぜひ観てみたいと思ったので行った。「不法労働」「貧困」「英語を理解できない(スペイン語話者)社会的弱者」という記号をもつメキシコ人少年ジョニー(ダグ・クーヤティ)と、カネを払ってでも性欲を満たそうとする主人公の白人中年男性ウォルト(ティム・ストリーター)の葛藤を描いている。確かに欲望をカネで解決しようとする強引なウォルトのやり方は人の道に反する恥ずべき行為ではある。しかし、これは現実には綺麗ごととして片付けられることが多い。人間の欲望を満たすための最大の手段の一つにカネがあがってくるのも事実なのだ。映画からわかることは、北の南に対する搾取だの、実らぬ異常な性癖だの、このような解釈はそれ自体間違いではないが、私に言わせれば、人のココロ(・・・)まで他人は支配できない、ということに尽きるだろう。いくら好きな人にカネを積んでも、ドライブに連れていき、可愛がって、相手の気を引こうとしてでもだ。嫌いなものは嫌いなのだ。受け入れたくないものは受け入れないのだ。ただし、それは絶対ではない。カネを前に屈するメキシコ少年ロベルトと、ジョニーのようにそれでない少年がいる。ところで、後者のジョニーはいつのまにか「若さ」という武器を巧みに使って白人男性を「支配」しているのだ。少し大げさに言えば、ここに、南の勝利、メキシコの米国支配、弱者の反逆という数少ない別の側面を見ることができる。ただしそれは有期である。若い肉体美は無限ではない。ジョニーは華奢な体で、清潔な感じではなく、鍛えた肉体ではないが、その自然体ゆえの不完全さがウォルトの美意識にマッチしたのだろう。そして、「美」を失いつつある中年の主人公のココロ(・・・)を揺り動かすと同時に、苦悩と葛藤を生む。ジョニーの手のひらで弄ばされていることに自分でもわかっているのだ。でも怒りは生まれてこないし、やがてそれが一種の快楽に思うのだ。

 しかし、やがてこれは終わりを遂げる。それは、叶わぬ望みを断念し、関心の対象がほかに移ったときだ。ウォルトの場合はある決断をして考え方を変えたのだった。途中から姿を消したジョニーにかわって、友人のロベルトをかわいがっていたが、ある晩、ロベルトが警察から逃げようとしたところ発砲され急死したことで、何もかもが変わってしまった。ロベルトがいなくなり、妹がポートランドを離れた頃、孤独を感じていた主人公の前に、突如、実は強制送還されていたジョニーが舞い戻ってきた。しかし、もはやジョニーを性の対象ではなく、代償がなくても支えになってやろうという、まるで父親が息子に対する「愛情」のごとく、彼を見ることができるようになっていた。いや、そうするように努めたのだろう。若さを失ったときのジョニーの苦境が想像できたのだろう。そこに主人公の品位すら感じる。見返りを求めない人のこころ(・・・)こそ、彼の品位の表れであり、彼の「プライド」であると私は考える。

 最後に余談ではあるが、メキシコ青年を演じていた二人の若者はメキシコ人ではなかった。ロベルトは英語とスペイン語のバイリンガルのラティーノで、ジョニーはスペイン語のわからない先住民系とのこと。あれだけ映画のなかではスペイン語の台詞を話していたのに。騙されていたようで少し残念だった。列記とした米国の映画だったのだ。でもサントラのGracias a la Vida(人生よ、ありがとう)はラテンアメリカへの郷愁を感じさせるいい選曲であった。

            *     *     *

 他方、ペドロ・アルモドバル『ボルベール』(帰郷)は、私にとっては、しばらく会ってない友人のことを思い出させる映画であった。これまでアルモドバルの映画は愛や性に関するテーマが多かったように思う。スペインでは受けても、概して保守的なラテンアメリカでは批判的な意見もあったと、ラテンアメリカの友人に聞いている。私がはじめてアルモドバルの映画を見たのはもうかれこれ20年も前のことである。はじめて観たのは『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(87年)である。この時に、『バチ当たりの修道院の最期』(83年)、『グロリアの憂鬱/セックスとドラックと殺人』(84年)、『マタドール<闘牛士>・炎のレクイエム』(85年)、『欲望の法則』(86年)を立て続けにビデオで観た。その後もいくつかの作品を見てきたが、一度見れば十分だった映画が多かった。自分のスペイン語の勉強や、学生たちに見せる教材用の映画として、多くのスペイン語映画はこれまでチェックしてきたが、アルモドバルの映画に限らず、近年のスペインやメキシコの映画には性的描写や暴力シーンがつき物で、しかも自然な感じではないものが多く、純粋な学生たちに教室で見せるには個人的にためらいを感じている。

 しかし、『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)および『トーク・トゥ・ハー』(02年)あたりから変化が見られ出した。この2映画では異性愛や同性愛を扱いつつも、それを越え、広く「愛情」をテーマにしている。性的描写よりも、その登場人物の愛情や心理状態の変化に重点を置いているために、「愛」を通じて人生観についてまで考えさせてくれる。しかしながら、それでも置かれた場面設定が一般の日常生活とは乖離しており、多くの人にとって現実味は低いだろう。その意味では今回の『ボルベール』は「家族愛」をテーマにしており、これは「失恋」や「恋愛」をテーマにした『神経衰弱・・・』のように、誰にも入っていける自然な流れとなっている。あえて気になることは、この映画では男性は排除されており、女だけの家族愛であることだ。ライムンダ(ペネロペ)は父親にレイプされ、またライムンダの娘もまた自分の夫にレイプされたというストーリー展開、家庭を崩壊させる要因は男側にあるといわんばかり。そんな父親も確かに存在すると、完全には否定できず、少し考え深いものがある。でも、願わくは、家族愛における父性の役割もふまえて探求していただきたかったと思う私の気持ちは男のエゴなのだろうか。

 ボルベールとは「もどる」という意味である。監督アルモドバルにとってのボルベールは、生まれ故郷ラマンチャを舞台に撮ったこと、そしてカルメン・マウラが彼の作品に20年ぶりに帰ってきたこと、そしてペネロペが祖国スペインの映画に帰ってきたこと、などである。アルモドバル自身、自分の映画のルーツを確認(ボルベール)できたのではないかと推察する。

 人生、過去を振り返ってばかりではいけない。ただし、過去にもどる(思い出す、反省する、再会する)ことで、今まで気がかりで、吹っ切れていないものがあるとすれば、それを解消することで、次なるステップにつながることが考えられる。過去、つまり自分の軌跡と、自分が出会った人との思い出、またそこからの教訓は大切な財産であるはずだ。たとえ、そのときによくわからなくても、振り返ることで後にわかればよい。たとえ、そのときに喧嘩別れしたとか、イヤな思いをしたとしても、長い人生のなかでそれもプラスの思い出となればよいのだ。

 偶然にも、昨年から今年にかけて通常できないことをやっている。そのひとつに疎遠になっている人との再会がある。昨年秋は週末を利用して大学の同級生だったTさんの墓参りのため富山に車を飛ばした。実は前回訪れた10数年前の記憶だけを手がかりに行ったので、結局いろいろ探してみたがわからなかった。その後、家のなかを整理していると彼女の実家の住所が出てきた。近いうちに時間を見つけてまた参りに行きたいと思う。彼女はほんのひと時だったが、友として私の力になってくれた人だった。

 また、今年は10年ぶりに私とは別のところで活躍している友人にも会った。一人は年賀状のやり取りは続けていたが、これまで会う機会がなかったので思い切って会ってみたが、文面だけでは不可解だったことがすべて解明できて嬉しかった。お互いに進むべき道は違うが(共通点がないわけではないが<笑>)、今日なんとかお互いに元気で生きているという点で共感するものがあった。彼の勇気ある真面目な人生選択にこれからも応援を続けていきたい。もう一人には結果的に会えなかった。私が遠方に引越し、仕事が忙しくなったことが最大の理由だが、あることをきっかけに、私は客としてそれまでよく通っていたNが経営する飲食店から次第に足が遠のくようになった。無論Nに原因があるわけではない。一客である私の愚痴を随分聞いてくれた良き兄貴みたいな存在だった。その店を10年ぶりに覗いてみたが、そこに店はなかった。そこでNを知る人物に連絡を取ったところ、Nは2、3年前に亡くなったということだ。たしか私より少し年上なだけであった。生前に会いたかった。同じならもう少し早く行動を起こすべきだったと悔やまれてならない。

                        【2007年8月23日脱稿/8月23日アップ】



論文、宙に舞う!?

 私は修行の場を金沢に選んだ。都会育ちの私にはいくら北陸最大の城下町であろうが、知人もなく、さびしかった。それを忘れるために、「お酒」でもなく、「パチンコ」でもなく、「勉強」に専念したのである。このときほど勉強した時代はない。断言できる。
 今は体力的にめったに徹夜とかできなくなってきているが、若かっただけあって、徹夜をしてまでもよく勉強した。私が入学した頃はまだ金沢大学が城内にあった(ここは現在、公園になって一般市民に開放されている)。泉学寮という学生寮に住んでいた私は、オンボロ自転車で城内キャンパスまで通っていた。城下からは急な坂道なので、自転車を押して上ったものだ。同じく西洋史研究室に入ってきた同期はT君。いまも懇意にしている。金沢で高校の教員をしている。同期西洋史学専攻は私たちだけだった。隣の考古学研究室には現在は中米で活躍している、その道のエキスパートS君がいた。
 ところでT君は優秀で、大塚久雄だの、ウォーラステインだの、やたら詳しかった。学部生も彼には一目置いていた。学部生でフランス史をやっていたO君もTと並んで物知りだった。私はだんだん不安になってきた。西洋史の大学院に外国語学部出身の私がまぐれで入れたまではよかったが、語学以外にとりえのない私にはだんだん居心地が悪くなってきた。
  彼らの勉強の話についていけず落ち込んでいたところ、思い切って師匠の山岸義夫先生(故人)に悩みを打ち明けたら、林健太郎の『史学概論』(有斐閣)という本を手渡され、これを読みなさいといわれた。概論と書いているが、私には専門書のように難しかった。要するに、先生曰く、「逃げていてはいけない」ということだったと思う。慰めは一時的なもので完全な解決にはならない。わからないならば勉強するしかないだろうということだったと思う。今になってそれはよくわかるのだ。

 さて、二人しかいないゼミ(二人といえどもこれは定員最大だった。当時は今みたいに院生をボンボンとらなかったのである)では、当然T君と比べられるという試練と、たっぷり絞り込まれることに対する恐怖が毎週1回(月曜日)襲ってきた。ゼミでは論文指導があるわけだが、発表して意見を交換するという今風のゼミ形式ではなく、毎週原稿用紙に数枚書いて先生にお見せし、チェックを受け、ご教示を受けるというものであった。
 赤ペンで原稿をチェックされるわけだが、すべてをチェックし終えるまで一人軽く10分はかかった。その間、沈黙だけが続いた。読み終わってどういうふうに言われるか、ましてやT君の前で恥はかきたくないというのがあって、自分では相当準備して毎回のぞんだ。結果からいえば、在学中ほめられることはほとんどなかった。日本語もヘタだし、論の展開もできていないと。最後まで読み終えたときには、原稿用紙は真っ赤になっていて、自分の鉛筆書きが見えなくなっていたほどだ。見事な添削指導である。達人である(笑)。

 これは自分の学生たちに何度か言ったことであるが、私の原稿が読むに耐えないときは、先生の怒りは頂点に達し、原稿用紙が宙に舞い上がったと。こう確かに自分では記憶している。そのシーンを今でもはっきりと覚えている。T君の原稿が舞い上がったかどうかは覚えていないが、T君が今日も舞い上がったよ、と苦笑していたと記憶している。
 でも先生のお人柄からしてそのようなことを絶対になさる人ではなかったはずだ。事実、それはありえない。では、どうして私は事実に反することを真実と思い込んできたのだろうか。おそらく、うまく文章が書けないという悩みと、先生にまた怒られるという恐怖心から、いつの間にか幻想の世界を自分で勝手につくり出し、それがあたかも真実として記憶されていったからではないかと思う。困ったことに、今でもこれは幻想だったと断言できないでいる自分がいる。脳裏には私の論文が宙に舞うシーンだけがよみがえってくるのだ。私の心がどれだけ病んでいたか、わかっていただけるだろう。
 それでも、厳しい指導のなかに、先生には愛情があった。そう、「愛情」なのである。教育者たる者にはこの「愛情」がなければ、ただ厳しいだけでは学生はついてこないのである。当然のことである。私は厳しい環境のなかでも、このことがわかっていたので、またがんばることができたのだと思う。
 私も自分の学生に対して同じように接しているのだが、最近の学生には少しずつこれが通用しなくなってきている。「愛情」と「厳しさ」は両立する概念ではなく、相反する概念のようである。大学では、体育会系の監督と選手の関係にわずかに残っているぐらいである。ただし、多くの体育会系学生は監督に対するのと同じように一般の先生には接しないだろうから、やはり最近の学生には通じなくなってきているといえよう。

                           【2006年8月10日脱稿/8月12日アップ】



「弱者」が優越感に浸る方法とは

<ヒスパニックがヒスパニックを取り締まる?>

 昨年(2005年)12月に米下院で不法労働者取り締まり強化の法案が可決され、以降すでに小さなデモは起こっていたが、上院でこの審議が開始された本年3月以降、大規模なデモへと発展している。3月25日ロサンゼルスで50万人規模のデモが開始されて以来、5月1日には110万人規模のデモが全米で展開された。下院が可決した法案とは、@不法労働を重罪とする、Aヒトの越境と麻薬密輸規制のための国境付近の警備強化を目的に、千キロ以上にわたるフェンスの設置をする、B不法労働者の摘発・逮捕の強化に加えて、それを「承知で」雇用した者に罰金(一件あたり25000ドル)を科すなど、極めて厳しい法案内容である。

 他方、上院では、これとは逆に比較的寛容な法案が提出され、@国境警備の強化と不法入国者の摘発、Aゲストワーカーとして一時的に入国を認め、3年間の契約(更新1回可)の末に、合法移民としての永住権などの資格が認められる可能性が提示されている。この法案を受けて5月15日、ブッシュ米大統領は異例の声明を発表し、従来の国境警備隊の人員不足を一時的に補充する意図で、監視システムやフェンス設置業務などの後方支援に当たる6000人の州兵を国境に配置する考えを明らかにした。また、すでに在米の不法労働者に対しては自動的「赦免」は認めないかわり、短期的雇用身分を取得させ、将来的には法令違反に対する罰金や納税義務、英語能力など一定の条件を満たした上で、市民権取得への道が開かれるべきであると提案した。これを受けて、5月25日、上院では上記法案が可決された。

 このように両院の法案内容はかなり食い違っており、共和党内部に分裂を生んでいる。ブッシュ大統領をはじめ共和党穏健派に対する同党保守派の批判が高まっており、協議の難航が見込まれる。州政府以下の地方レベルでも共和党穏健派に対する批判がある。共和党の支持基盤であるキリスト教右派やネオコン(新保守主義)、あるいは白人低所得者層やネイティヴィスト、アフリカ系など他のマイノリティ集団からも穏健派の移民擁護策に対する反発が起こっている。今年11月は中間選挙をひかえており、ヒスパニック系の得票や党内の結束は共和党の勝敗の行方を左右する重要な要因であることから、移民問題に対して慎重に対処していかなければならないという現実もある。事実、移民法案の採択は中間選挙以降に先送りされるという見方が強い。

 ところで、ブッシュ大統領は州兵を非武装的任務のためにリオグランデ国境に配置、増強しつつある。州兵は制度上、戦争に出ることはないとされながらも、実際にはイラク戦争などにも多くの州兵が派遣されており、制度と実態との乖離は大きい。また州兵として派遣される大半が、黒人やヒスパニック系の低所得者層の若者である。このように、州兵の派遣によって、メキシコ国境付近の「軍事化」増強にも結びつき、州兵として派遣される低所得者やマイノリティが、ある意味「同胞」である越境者を制圧するために、彼らと戦闘を繰り広げることは十分に想定できることである。加えて、ヒスパニック系越境者を「犯罪人」同様に見下し、非人間的な対応をとることに躊躇の気持ちすら持たない同胞のヒスパニック系住民を訓練によって育成し、ヒスパニック系の内部に優劣という格差と人種差別主義を故意につくり出そうとしている。テキサス州の国境付近に監視カメラを24時間体制で作動させ、これをインターネット中継することで、一般の市民でもネット上に映し出された越境者を通報できるようにする計画がテキサス州知事ベリーによって発表された。悲しきかな、まるでヴァーチャル・ゲーム感覚ではないか。

 移民法案と並んで登場してきたのが、「外国人犯罪者排除法のための明確な法執行」法案(Clear Law Enforcement for Criminal Alien Removal Act: Clear Act)である。これは最初2003年に議会に提出され、同修正案が05年夏に提出された。同法案は州政府や地域の役人に、すべての連邦移民法を執行できる権限を与えるもので、移民法を遵守しないものを「犯罪人」とみなし、国家犯罪情報センター(National Crime Information Center: NCIC)のデータベースに情報を提供するというものである。要するに、州警察や市警察に移民法執行の権限が与えられ、管理体制を強化する意図があるようだが、こうなると、いわゆるテロリストやその他の犯罪者の摘発が疎かになる可能性がある。また、ヒスパニック系がまるで犯罪者のごとく取り調べられる可能性があるために、積極的に警察に情報提供する者も減るだろう。ヒスパニック系というだけでことごとく取り調べられ、人権侵害にもなりかねないことが概して憂慮されている。

 世界中にグローバリゼーションが浸透、強化されつつあるなかで、ボーダレス(脱越境)があらゆる分野において推進されており、もはやそれを制止することは難しくなってきている。だが、ヒトの移動だけは従来通り、ボーダーが維持、強化されており、また2001年9月11日の同時多発テロ事件以降、国内の外国人に対する取締りはむしろ強化されてきている。本年はラテンアメリカでは大統領選挙のラッシュ年であり、グローバリゼーションに対抗する反米的なポピュリスト政権の誕生が増えてきている。スペインのサパテロ政権同様、「左派」政権が優勢であるラテンアメリカ諸国であるが、他方、メキシコでは7月の選挙の結果、次期大統領は右派の国民行動党(PAN)のカルデロンに決まったように、左派的ポピュリスト政権が支持されない親米的な国もある。米国の移民問題は出自国であるラテンアメリカ諸国の経済や移民政策とも連動しており、この意味で問題はより複雑である。                      

 【2006年7月31日脱稿/8月4日アップ】

* 『イスパニア図書』第9巻(行路社発行)掲載の拙稿一部抜粋。
  詳細は当該雑誌をご覧下さい。



群馬県大泉町を訪れて

 6月21日、私は別件の用事があって群馬県大泉町にいた。ここは日本でも有数のブラジル人町である。それは全人口の15%も占めているらしい。事実、私はブラジル人らしき外国人に出会うことが多かった。近隣の太田市駅前にはBanco do Brasilがあった。
 私は大泉町のプリマヴェーラなど有名なブラジル料理店を紹介され足を運んだが、まだ夕方早かったのでオープンしていなかった。また出直そうと思って最寄りの西小泉駅にもどると、まだ電車の時間まで30分以上あったので、駅周辺を歩いて時間をつぶしていると、偶然にも「ブラジリアン・プラザ」というショッピングセンターを発見した。
 その2階にはブラジル料理の軽食の店があって、ここで手当たり次第いくつかの料理と飲み物を注文した。すべてがはじめて食べるものばかりで、ものめずらしく思った私は子供のようにわくわくしながら食べた。
 お店の方は日系ブラジル人のサトウさん(確か名札にはそう書いてあったと記憶しているが)という60代くらいの男性だった。この方といろいろお話ししたが、やさしそうな良い方だった。今多くの日本人が忘れつつある「心」がこの人にはあると思った。おそらく苦労されたことも多かったのだろう。ブラジルで生まれ、12年前にはじめて日本に来たと自らを語っていた。本当にまたこの店に来て、もっと彼から人生の話を聞きたいと思った。日系移民のことも。
 この店にずっといたので、おかげで予定より1時間以上も大泉町を出発するのが遅くなった。そして、なぜか私は後ろ髪を引かれる思いでこの町をあとにしたのだ。きっと近いうちに戻ってくるだろう。こんな気持ちになることはそう頻繁にないことだ。これまでの人生のなかで、留学先のメキシコから日本に戻る際の離陸直後、飛び立った機内からメキシコシティーの全景を見下ろしながら感じた、あの若き頃に体験した気持ちに似たものだった。
 最近では、牛島満中将が自決したという場所を探しに沖縄の地にはじめて訪れて帰路につくときもこれと同じ妙な気持ちになった。

 大泉町訪問から二日後、折りしもW杯ドイツ大会で日本とブラジル戦が行われ、日本はこれに敗退したのだった。大泉町の人たちはこのゲームをどのように観ていたのだろうか。実はちょっと気になっているところだ。

                          【2006年6月24日脱稿/6月24日アップ】




『ダック・シーズン』評

 最近世の中の流れは、野球のボールにたとえると、「直球」が多いと思う。要するに、わかりやすい、明確なものが好まれる。反対に、手間隙、時間のかかかるもの、何をやっているのかわからないものは人々の注目の的からは外れるようだ。世の中はカネと結びついた成果主義に陥っていて、なんでもかんでも早急の回答をみつけたがる。むかしは解決がつかないことでも時間をかけて思索したものだ。ああでもない、こうでもないとやっているこのプロセスが楽しかったのだ。だが、いまは人間に時間的余裕も精神的余裕もだんだんなくなってきているのではないか。しかし、例外はあって、どうも映画や芸術の世界はまだ昔ながらにスローテンポである。直球ではないものが多い。さすがに精神文化の拠り所である。

 久しぶりに時間ができたので、映画館に出かけ、メキシコ映画を見る機会があった。もう終わったが「ダック・シーズン」(現題名Temporada de Patos 2004年、メキシコ)という白黒の映画である。またこの映画がまた直球でなく、スローボールや変化球で、何がいいたいのか、いまひとつわからないのだ。私はどちらかといえば、何かを訴えるときに直球型なので、この映画を解するのに苦労した。いまだに不可解な点が残っている。無論、コミュニケーションによる人間関係の構築というのが大きなテーマにあることはわかっているのだが、本当に監督(エインビッケ監督は脚本も務める)の意図がそこにあるのかどうか、変化球だから右にも左にもとれて困っているのである。メキシコアカデミーの11部門で受賞したというこの映画を自分なりに解釈してみよう。

 主人公は二人の少年、フラマとモコ。これにマンションの隣の女リタとピザ屋店員ウリセスが加わった4人で物語は展開される。母親に留守をまかされたフラマはともにコーラを飲みながら友人モコとテレビゲームで遊んでいた。だがこの二人の親密な仲を中断するのが、「停電」であり、「隣の女」であり、「ビザ屋の店員」であった。本当は彼ら二人だけでこの空間を楽しみたかったのだが、異質なものが加わる。停電によって、一挙に4人の空間へと変わるのだ。しかも二人の少年たちは割かれる。フラマはウリセスとリビングルームで、モコはリタと台所で、という具合に。

 ところで、テレビゲームに熱中する親友同士のフラマとモコにはほとんど会話がなかったが、異質なものとの間にはコニュニケーションが生まれてくる。モコはリタと台所でケーキ作りに専念するが、会話やキスやボディ・タッチがあった。またフラマはピザ屋ウリセスとケンカになりその関係修復に時間が展開される。そして最後は仲直りし、いっしょに注文したピザを二人きりで全部たいらげたほどである。

 やがて4人がリビングルームでいっしょになる。そしてリタの作ったブラウニーを全員で食べたときに、4人が妙にハイテンションになる。魔術的リアリズムという文学手法によって料理が人間関係に多大な影響を与えることはこれまでもいろいろな映画で試られてきていることである。『ショコラ』(2000年・米)にみられるように、チョコレートはその代表だし、10数年前のメキシコ映画「赤い薔薇ソースの伝説」(1992年・メキシコ)でもバラと血を料理に混ぜることによる魔力については体験済みである。またこの映画のタイトルにもあるカモが空を飛ぶ絵が4人をひとつに結びつける。これを見た4人はその空を飛んでいくカモに魅了される。この空を飛ぶということは心の開放を意味する。アレックス・コックス監督の『レポマン』(1984年・米)の最後のシーンでエミリオ・エスベテスが空とぶ車マリブで飛行しながら興奮していたのを思い出す。

 こうして、物語も終盤にさしかかえってきた頃には、4人とも実は日頃は忘れたり、隠してしまっていたりする悩みがあることが明らかにされる。ウリセスは仕事に喜びを見出せず、リタは家族が自分の誕生日を忘れていることに悲しさを覚え、フラマは両親の離婚協議中、自分が本当の子供でないのではと不安に思っている。

 そして、モコはかけがえのない人に対する「ときめき」を告白する。それはリタとのコミュニケーションを通じて自覚できるようになってくる。そしてリタから学んだ大胆さとハイテンションな気持ちにあいまって、フラマが自分の本当に慕っている大事な友人だと自覚し、それを相手にアピールしようとするのである。リタとウリセスという異質な二人が入ってきたことによって、フラマと一度は空間を分断されるのだが、この二人のおかげで、フラマが自分によってかけがえのない友達だと気づくのである。それは最高級の友情であり、同性愛とは異なるが一種の「愛」の形態であると思う。14歳の少年にとって、「愛」を本当に悟っていたかは定かではないが、少なくとも女性のリタよりも、いまはフラマに「ときめき」を感じていることだけは確かなのだ。

 モコがフラマの耳をなめるシーンがある。さらに、お互いの上着を交換するシーンもある。相手の着ている衣服を身につける行為は相手に対する憧れと、相手との一身胴体であることの証である。でなければそれはできないことだ。相手の衣服についた汗や体臭が自分の体臭と混ざる瞬間こそ、自分の好きな人と交わることにできる瞬間であり、それに何ともいえない満足と安心を感じるのである。スポーツ選手が試合のあとにするユニホームを交換し、相手のシャツを着る心理に近いものがあろう。以上がモコのフラマに対するコミュニケーションのとり方だったのである。

 だが、映画がなにぶん直球でないので、これが本当に監督の意図することなのかどうかわからない。あるいは観客の関心はむしろ、場面設定の面白さに加えて、時間の経過を強調しつつ、全編白黒であることから生まれる独特な雰囲気にあるのかもしれない。まさに多様な観客のハートをつかむために、変化球を投げてくる今日的映画という意味で秀作なのかも知れない。

                         【2006年6月20日脱稿/6月24日アップ】




スペイン人の情熱は海洋にあり

――世界20ヶ国の公用語スペイン語のすすめ――


 グローバリズムの影響がわが国にも十分に浸透してきている昨今、もはやこれを拒否はできなくなってきております。そこで外国とのコミュニケーション・ツールである外国語能力の養成が大学教育では重視されています。

 一昔は英語以外に何かプラス&ということで、第二語学のブーム期がありました。ところが近年の傾向は、英語中心で、しかも英語の「話す」「聞く」に重点を置いたきわめてプラクティカルな英語教育に的をしぼっております。そのため、むやみにネイティブの授業数が増えました。
 その是非は論題からずれますのでここでは述べませんが、問題は、外国語といえば、あらゆる重要性から考えて、まずは英語ですが、外国語は英語ばかりではありません。多くの大学で、英語以外に、中国、韓国語(コリア語)、ドイツ、フランス、スペイン、ロシアなどが学ぶことができます。
 また第二語学は多くの大学で選択科目ですが、それでも多くの学生が熱心に学んでいます。概して、受講者が一番多いのは中国語ですが、次にスペイン語が来るようです。スペイン語というのは意外だったかもしれません。ではどうしてスペイン語を受講する学生が多いのでしょうか

 まず、スペイン語の重要性および将来性を認識している学生が多いからです。つまり、スペイン語は中国語、英語に次いで世界で三番目に多く話されている言語だからです。その人口は約四億人と言われています。
 しかもスペイン語はスペイン人だけのものではなく、メキシコ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、コロンビア、ペルー、アルゼンチン、チリなど中南米(ラテンアメリカ)を中心に約20ヶ国の公用語になっています。
 さらに、90年代以降、経済のグローバル化が国際的に推進されるなかで、スペイン語を母語にしているヒトの移動が顕著になってきています。もともとスペインや中南米に集中していたスペイン語話者が今日ではアメリカ合衆国や日本などに移動してきています。

 アメリカは中南米からもっとも近い経済大国ですから、必然的に人口移動がそちらに向かいます。今日アメリカに居住しているスペインおよび中南米系の人たちを「ヒスパニック」や「ラティーノ」と言いますが、その数は4000万を越え、白人以外でこれまで最大だったアフリカ系(黒人)人口をすでに上回っています。また年々その数は増加しています。
 したがって現在、アメリカ合衆国のなかで頻繁にスペイン語は話されており、アメリカの高校や大学ではスペイン語教育に力を入れています。フロリダ州などでは法律で英語とスペイン語の二言語教育が認められております。またCNN en espa?olのように、アメリカにはスペイン語番組も数多くあります。

 日本でもスペイン語話者が全国的に増えてきております。とりわけペルーからの日系移住者が多いです。自分たちの祖先の国に来て働いているわけです。ペルー以上に中南米の国で来日者が多いのがブラジル人ですが、彼らの言語はポルトガル語です。
 しかし、スペイン語とポルトガル語は兄弟語の関係にあり、あなたが話すスペイン語をブラジル人は理解してくれます。現実問題として、日本語をよく理解できないで日本で暮らしている人も多く、今後は、彼らを助け、相互の交流ができるスペイン語を話せる若い世代の日本人が期待されています。

 また近年の政府間での自由貿易協定(FTA)のブームに便乗して、すでに日本とメキシコでは経済連携協定(EPA)が成立しており、今後チリなどとも同様の締結が予想され、ますます日本とスペイン語圏の関係は深まっていくことでしょう。


 では、本題に移りましょう。どうしてスペイン人の情熱は海洋にあるのか。スペインという国はよく「情熱」の国と言われます。それは、フラメンコや、サルサ・ルンバなどのラテン音楽やダンスをイメージされる人もいるでしょう。またリーガ・エスパニョーラ(スペイン・リーグ)のレアルとバルサの試合での観客のサッカー熱をイメージされる人もいるでしょう。あるいはゴヤ、ベラスケス、ピカソ、ミロ、ダリなどの画家、さらに極めつけはサグラダ・ファミリア教会の設計者ガウディーに見られる芸術家の情熱(パシオン)を感じる人もいるでしょう。ここではスペイン人と海との関係に焦点をしぼって、彼らがいかに海洋に情熱を傾けてきたかお話しましょう。

 まずは基本的なことですが、飛行機がなかった時代、汽車がありましたが、それ以前は陸路では馬車、海路では船しかなかったわけです。日本という国は周りを海に囲まれている島国ですから、当然船がなければ周辺国との交易もできなかったわけです。スペインの場合も同様で、国内通商ならともかく、外国との通商は、イベリア半島の山がちで起伏の激しい陸路よりもむしろ船をつかっていました。
 スペインは早くから地中海貿易に乗り出しました。そのため、敵対関係にあったのですが、北アフリカのイスラム教徒との通商や文化的交流がさかんで、当時のイスラム文化はヨーロッパ文化よりはるかに優れていた時代ですから、スペインはポルトガルと並んで、羅針盤をはじめ、イスラムの進んだ造船技術をいち早く習得しました。こうしてスペイン・ポルトガルが率先して一五世紀には大航海時代に突入していったのでした。

 ポルトガル人はアフリカを南下し、現在の南アフリカ共和国のアフリカ最南端である喜望峰(ケープタウン)を回って、インド洋をインドに向けて北上するという海路を確立しました。このときの水先案内役はイスラム商人でした。つまりイスラムの人たちの方が海路を熟知していたわけです。やがてポルトガル人はインドのゴア、中国のマカオを自分たちの港にしていきます。

 他方、スペイン人は敵対するポルトガル人とあえて違う海路を模索していました。折りしもプトレマイオスの地球球体説、トスカネリの西方航路説が提唱され、ヨーロッパから西に向かってアジアに到達することができるという考えが広まってきます。しかしまだ実行した人がいなかったために、それが真実で成功するかどうかもわからないし、また実行するには多額の投資が必要で、まさに賭けだったわけです。

 コロンブスはイタリアのジェノバ出身でしたが、この事業を試みようとして、まずはポルトガル国王に打診しますが断られます。次にスペイン(厳密にはカリティーリャ)女王イサベラに7年の歳月をかけて説得し、コロンブスはスペインの援助のもと、西回り航路でアジアに向けてスペインを出航したのでした。

 ところが、今日では当たり前のことですが、ヨーロッパとアジアの間にはアメリカ大陸が存在しているのは誰も知りませんでした。コロンブスがこれを発見してからも、新大陸とは知らずに、コロンブス自身も最後までそこをインドだと思って死んでいきました。だからそこに住んでいる先住民たちはインディオ(インディアン)と呼ばれ、その広大な陸地はインディアスと名づけられたのです。

 やがてそこはインドでもなくアジアでもなく、一つの別の大陸であることがわかってきます。1513年、スペイン人バルボアはパナマ地峡で大西洋とは別の海、つまり太平洋を発見したのでした。しかしこのときはまだ「南の海」という名称でした。なぜなら、その広大さを認識できていなかったからです。これに「太平洋」という名をつけたのは、実際にこの大洋を横断したマゼランだったといわれています。

 マゼラン艦隊は1520年から翌年にかけて、南米最南端から大海原を帆走し、フィリピンに達します。マゼランはフィリピンのマクタン島で戦死しますが、艦隊二隻のうち一隻は南インド洋を突っ走り、喜望峰を迂回して無事スペインに帰還します。
 もう一隻は香料諸島(モルッカ諸島)から東航路を求めて北緯43度(札幌と同じ緯度)まで北上しましたが、乗組員54名が餓死し、残りの乗組員も壊血病にかかり、加えて台風に遭遇し、航海を断念せざるをえなかったのでした。

 ここでスペインには次なる試練がやってきました。それは1542年に発見しスペイン国王フェリッペ二世の名を付けて植民地となったフィリピンと、当時同じくスペインの植民地であったメキシコ(ノビイスパニア)との航路の確立でした。植民地を維持するためにはその地域の安全保障の確立が必要でした。そのなかには当然航路の確保があがってきます。メキシコからフィリピン行きの航路はマゼランの時代にすでに知られており、地球の自転にともなって、赤道の北方には西へ流れる北赤道海流と東から西に吹く季節風を利用することをスペイン人は早くから熟知していました。

 しかし、フィリピンからメキシコに向かう帰路がなかなか見つかりませんでした。そこでスペイン人の海の探検はさらに続けられます。その過程で、彼らは沖大東島や小笠原諸島を発見しています。そしてついに1565年、東航路を発見します。

 6月1日、マニラからサンベルナルディーノ海峡を通過し、太平洋に出て、マリアナ諸島あたりから西北西の風を求めて緯度を高め、北緯36度までいくと日本の犬吠崎の岬が見えたという記録が残っています。
 さらに北上し、40度付近で北西風に遭遇し、これを利用して43度まで北上しつつ最後は東に向かって帆走し続け、ついに東航路を発見したのでした。こうして9月22日にカリフォルニアに到達したのですが、航海士をはじめ多くの死者が出て、これらの犠牲のもとでスペイン人は海路を発見することができたのです。
 まさにスペインはかつて「日の没することない国」といわれていましたが、スペインがヨーロッパとアメリカ大陸とフィリピンを支配するためにはまずは海の道を確保する必要があったのです。

 日本は太平洋に面していながら、実はスペイン人のようには海洋を制覇していませんでした。17世紀に入っても日本は依然太平洋を横断する技術を持ち合わせていなかったのです。当時、徳川家康が日本近海で座礁するスペイン船を救助しては、彼らをメキシコに送ることを名目に、日本で船を修理させたり、新しく船を造らせたりして、それができあがると日本人を便乗させ海路の情報を得ようとしました。
 このような日本人の策略に気づいていたスペイン人は日本人に情報を極力与えようとはしませんでした。そして、日本でキリシタン禁止令が発布され鎖国状態になってからはスペインと日本の交流は途絶え、同時に日本人の海に対する冒険は終ってしまいます。そして日本人の海洋に対する無知は1853年にペリーが浦賀にやってきたときに再び大きな試練となってあらわれるのです。

                                                     【2006年4月脱稿/6月13日アップ】




 6月3日(土)パネルB「米国社会におけるラテンアメリカ系移民」における、牛島万の「米墨戦争の今日的意義と教訓」の発表内容(要旨)

 歴史からの教訓は、E・H・カーの言葉を引き合いに出すまでもなく、重要である。それは過去から現在への継続性と歴史的過去の再来という観点から考えられる。

 本発表では米墨戦争、マニフェスト・デスティニーを中心に、19世紀半ばのアングロサクソン系白人による膨張主義の経験から得た教訓である、「人種的排他主義」による安全や利潤の追求について考察し、その結果、今日の排他的な移民政策や安全保障、危機管理の強化の背景に会い通じるものがあることを論じたいと思う。

 過去の継続という点では、ラテンアメリカ系に対する「浅黒い」(dark-skinned)という最大のステレオタイプ的イメージが今日まで根強く存在していることである。アングロサクソン系白人は、有色人種を劣等な他者として差別化することで、自らの優位と安全を確保し、そこからかつての自信を取り戻そうとしている。
 また歴史の再来という点では、不法移民の流入と急増を背景にテキサスが米国に併合されたという史実もあり、今日ラテンアメリカ系による急速な「米国の褐色化」(Browning of America)を抑制する動きが高まっている。そしてメキシコ人とインディアンに市民権を与えることを拒否したのである。
 グアダルーペ・イダルゴ条約締結前夜からのメキシコ人に対する排斥運動と、これをふまえたリオグランデ境界画定の過程や背景について考察すると、今日のヒスパニック系不法移民排斥の風潮の根底にある人種差別がここでも見られる。移民急増と社会不安という共通する社会的背景から生まれる人種的排他主義に加えて、差別や偏見の念は時代を越えて存続しているのである。

【2006年6月12日】



ヒスパニック/ラティーノ 40   作成  牛島 万
名前 氏名 職位、職業等 出身地 生年月日
アンソニー、マーク Anthony, Marc サルサ歌手 プエルトリコ ニューヨーク 1969.9.16
バディージョ・エルマン Badillo, Herman 政治・下院議員 プエルトリコ プエルトリコ、カグアス 1929.8.21
バエス・フアン B?ez, Joan 歌手 父メキシコ系 ニューヨーク 1941.1.9
ブレイズ、ルベン Blades, Ruben 歌手 パナマ パナマ 1948.7.16
チャベス、セサール Ch?vez, C?sar 労働運動家 メキシコ アリゾナ、ユマ 1927.3.31-1993.4.23
チャベス、デニス Ch?vez, Dennis 上院議員 メキシコ ニューメキシコ、アルブカーキ 1888.4.8−1962.11.18
シスネロス、ヘンリー Cisneros, Henry サンアントニオ市長、住宅都市開発長官 メキシコ サンアントニオ 1947.6.11
クルス、セリア Cruz, Celia サルサ歌手「女王」と称された キューバ ハバナ 1925.10.21-2003.7.16
デ・ラ・ガルサ、エリヒオ De la Garza, Eligio "Kika" 下院議員、下院農業委員会議長 メキシコ メルセデス 1927.9.22
デル・リオ、ドロレス Del R?o, Dolores ハリウッド女優 メキシコ デュランゴ 1905.8.3-1983.4.11
エスカランテ、ハイメ Escalante, Jaime 高校数学教師 ボリビア ラパス 1930.12.31
エステファン、グロリア Estefan, Gloria 歌手 キューバ ハバナ 1957.9.1
エステベス、エミリオ Estevez, Emilio 俳優、監督、マーティン・シーンの息子 スペイン ニューヨーク  1962.5.12
フェリシアノ、ホセ Feliciano Jos? 生まれつき盲目のギタリスト プエルトリコ プエルトリコ、ラーレス  1945.9.10
ガリシア、アンディ Garcia, Andy 俳優 キューバ ハバナ 1956.4.12
ゴイスエタ、ロベルト Goizueta, Roberto コカコーラ社CEO キューバ ハバナ  1931.11.18-1997.10.18
ゴンザレス、ロドルフォ Gonz?les, Rodolfo "Corky" 公民権運動家、著述家 メキシコ コロラド、デンバー 1928.6.18−2005.4.12
ゴンサレス、ヘンリー Gonz?les, Henry B. 下院議員 メキシコ サンアントニオ 1916.5.3-2000.11.28
ゴンザレス、アルベルト Gonzales, Alberto 司法長官 メキシコ サンアントニオ 1955.8.4
グティエレス、カルロス Guti?rrez, Carlos 商務長官 キューバ ハバナ 1953.11.4
ヘイワース、リタ Hayworth, Rita ハリウッド女優 父スペイン系 ニューヨーク 1918.10.17-1987.5.14
イフエロス、オスカール Hijuelos, Oscar 作家、Pulitzer賞受賞 キューバ ニューヨーク 1951.8.24
フリア、ラウル  Juliaa, Ra?l ブロードウェイ俳優 プエルトリコ プエルトリコ、サンフアン 1940.3.9-1993.10.16 
ロペス、ナンシー Lopez, Nancy プロゴルファー メキシコ カリフォルニア 1957.1.6
マリーン、リチャード チーチ Mar?n, Richard "Cheech" コメディアン、監督 メキシコ  ロサンゼルス  1946.7.13
マルティネス、メル Martinez, Mel 共和党上院議員 キューバ キューバ、サグア・ラ・グランデ 1946.10.23
メレンデス、ビル Mel?ndez, Bill 映画・TVアニメータ メキシコ ソノラ、エルモシージョ 1916.11.15  
メネンデス、ロバート Men?ndez, Robert 民主党上院議員 キューバ ニューヨーク 1954.1.1
モレノ、リタ Moreno, Rita 女優、オスカー賞受賞 プエルトリコ プエルトリコ 1931.12.11
ノベジョ、アントニア Novello, Antonia 米公衆衛生局医務長官 プエルトリコ プエルトリコ、ファハルド 1944.8.23
プエンテ、ティト Puente, Tito サルサ・ドラマー プエルトリコ ニューヨーク 1923.4.20−2000.5.31
リチャードソン、ビル Richardson, Bill ニューメキシコ州知事 メキシコ カリフォルニア、パサデナ 1947.11.15
ロンスタド、リンダ Ronstadt, Linda 歌手 メキシコ アリゾナ、トゥソン 1945.7.15
ロス-レティネン、イレアナ Ros-Lehtinen, Ileana 共和党下院議員 キューバ ハバナ 1952.7.15
ロイバル、エドワード Roybal, Edward 民主党下院議員  メキシコ ニューメキシコ、アルブカーキ 1916.2.10-2005.10.24
ロイバル-アラード、ルシル Roybal-Allard, Lucille 民主党下院議員  メキシコ ロサンゼルス  1941.6.12
サラサール、ケン Salazar, Ken 民主党上院議員 メキシコ コロラド、アラモサ 1955.3.2
サンタナ、カルロス  Santana, Carlos ギタリスト メキシコ ハリスコ 1947.7.20
バレンスエラ、フェルナンド Valenzuela, Fernando プロ野球選手 メキシコ ソノラ 1960.11.1
ベラスケス、ナイディア Vel?squez, Nydia 民主党下院議員  プエルトリコ  プエルトリコ  1953.3.23
ビジャライゴサ、アントニオ Villaraigosa, Antonio ロサンゼルス市長 メキシコ ロサンゼルス  1953.1.23
【2006年6月12日】

牛島万ホーム

Copyright issues and use/ownership of images: all information provided on this web site is copyrighted by Morihiko Yasuda.
Permission to use any images from this site must be granted by either the original owners or Morihiko Yasuda.

All Site Contents Copyright (C)(P) 2006 - 2011 Morihiko Yasuda All rights reserved

安田守彦ホーム